CYDONIA
第八話「血の復讐」
あの事件から五日目、俺の体力が戻ってきた頃合いを見計らって、親方が話してくれた。
「ブルは以前から戦地への物資をチョロまかしていたようだ。自分は興奮剤を常習し、お前の酒にはケシの汁を混ぜて飲ませたらしい。前後不覚になったのはケシのせいだろうな」
やつは今もウルダハの地下牢に幽閉されている。
あいつのことを思い出すと、あのときの恐怖を思い出すと同時に、どうしようもない怒りと憎しみもわいてくる。けれども、地下牢にいるとなっては仕返しすらままならない。
「お前、ブルのことをどうやって殺してやろうかとか考えてるだろ」
図星を指されて、さすがにギクリとした。
「先に釘を刺しておく。おまえがされたことを考えると、気持ちは痛いほどよくわかる。でもな、ウルダハは法治国家だ。私刑は禁止されている」
「俺は…俺が油断したのが悪いってわかってます。だけど、あいつに仕返しができないなんて我慢できない!」
思わず声を荒げてしまったが、親方にぴしゃりと遮られた。
「ダメだ。やつを殺してしまったら、今度はおまえが犯罪者になってしまうんだ。幸いに、でもないが、お前は縛られて一方的にやられた。喧嘩両成敗という裁きにはならないだろう。それに俺は雇い主として損害を受けている。あいつは法の裁きの下で罪を償わせるべきだ」
言い分はわかる。けれども、どうしても、納得できなかった。
親方は怒るなというが、それは無理というものだった。
膝の上で拳を握りしめた。怒りで手が震えていた。
「おっす! ドリスに食事と薬届けてきたぜ」
いまだ家に帰れない俺にかわって、ママルカと親方がたびたびドリスの様子を見に行ってくれていた。
張り詰めていた空気が和らいだ。親方はママルカの肩を叩いて静かに部屋を出て行った。
「ん? どうした、深刻な顔して。」
「ママルカ、俺…悔しいんだ。なんであんなやつが生きてるんだ。なんで」
激しい怒りで胸が苦しい。涙がこみ上げてくるのを感じた。
親方の言うとおり、ここは怒りをこらえるしかないというのはわかっている。
でも、怒りをぶつけたい相手はいま地下牢の中にいて、悔しくても手出しできない。手出ししてもいけない。それもわかってる。
わかっているからこそ、どうしようもなく悔しい。
「我慢するのは身体に良くないぞ?」
「親方は怒るなっていうけど、そんなの無理だ。ウルダハの法律なんか知るもんか! あんなやつぶっ殺してやる!」
一旦気持ちを吐き出したら止まらなくなってしまった。
それで、ブルが憎いということ、やつをどうしても殺したいということを話した。
ママルカは珍しく黙って聞いてくれていたが、ひとしきり吐き出してしまうと、俺の手を軽くポンポンと叩いた。
ベッド脇の椅子にちょこんと腰掛ける。
「親方は怒るななんて言ってないだろ。怒りってのは健全な感情なんだぜ。一方的にやられて悔しくないわけがあるか。我慢なんかしなくてもいい。ただ、同じ方法で仕返しするのがダメだって話だ」
「じゃあ、どう仕返ししたらいいんだ」
「国がお前のかわりに罰を与えて仕返しをしてくれる。そうだな、傷害で禁錮一週間、窃盗でさらにニ週間。悪質だった場合は片腕を切り落とされるな。あとは損害賠償。親方には物品の損害額を、お前には怪我させたことの詫び代を支払わないといけない」
ママルカは国の法律にもくわしい。小難しいことを語っているときは歳相応に見える。
「あとは、まあ、これは当然だけども、あいつの悪行は仕事仲間に知れ渡ったし、やりすぎだってんで子分まで愛想をつかしちまった。まず間違いなく荷運び場はクビになるだろ。ウルダハを追い出されるかもしんねぇし、このご時世、住む場所もなしで生きていけるほど甘いわけがない。すべてあいつの自業自得さ」
「ミコッテ族の集落だったらもっと話は単純なのに。誰かを傷つけたり殺したりしたら、血の復讐を誓われて、それで血族まで徹底的に殺されておしまいだ」
「そうだなぁ…」
ママルカは首をかしげてしばらく考えこんでいたが、いきなりこんなことを話し始めた。
「おれ、荷運び場で仕事する前は呪術師ギルドで修行してたんだ。今回の件で、真面目に呪術師の修行をしてたら良かったって、すげぇ後悔してさ」
呪術…そういえば呪術師ギルドがあったっけ。
それにしてもママルカが呪術師の修行をしていたとは、初耳だった。
「呪術師だったら憎いやつを呪えるだろ?そしたら、おれ、ブルに呪いをかけてやる」
呪術師ギルドに関する恐ろしい噂は聞いたことがある。
夜な夜な黒装束が集まって怪しい儀式をしているなんてのは序の口で、呪術師ギルドを潰そうと企んだ役人が穴という穴から血を噴き出して苦しんで死んだとか、ギルドのシンボルをうっかり踏んだやつが足の先からグズグズと腐っていく奇病に罹ったとか、そういった類いの噂だ。
「呪いって、どんな…?」
「触れたものすべてをクソに変えちまう世にも恐ろしい呪いだ…!」
あまりにも真剣な顔だった。
虚をつかれて、俺は思わず毒気を抜かれてしまった。
「は?」
「あいつさ、女を買うためにコツコツと給金を貯めてるだろ。ようやく極上の美女と宿にしけこんで、さあ一発やったるでぇー!って気合い入れたところで…」
ここでわざとらしく、いったん声を潜める。
「美女が……なっちまうんだよ、クソの塊に…!」
ひどい呪いもあったもんだ…。
「…その美女、なにも悪いことしてないよね? 可哀想すぎない?」
「それがこの呪いの恐ろしいところだ」
大真面目に頷いている。
本気でそう思っている様子なのがやつの恐ろしいところだった。
「いつか言わせてもらおうと思ってたんだけど、君の冗談は下品で最悪だ」
「それ、おれにとっては最高の褒め言葉だって知ってるか?」
もうダメだ。降参だ。これ以上、怒りを維持できない…。
絶望の中に天空から光り輝くクソが降ってきて、深刻な気分をすべてふっ飛ばされた。
思わず吹き出してしまったら、もう止まらなかった。
笑うと傷に響いて痛かったが、それでも俺はママルカと一緒に笑った。笑いすぎて涙が出た。
不思議だ。大笑いして馬鹿馬鹿しい気持ちになると、どうして怒りや憎しみが溶けてしまうんだろう。
それでふと思いついた「同じ方法ではない仕返し」についてママルカに話した。
ママルカは話を聞くなり吹き出し、手を叩きながら爆笑した。
たぶん、この方法なら親方だって大目に見てくれるだろう。
ママルカが親友でいてくれて本当に良かった。
俺は心からそう思った。
やっと家に帰ることができた。ドリスの顔を見たらホッとして泣きそうになってしまった。
ドリスは俺が無事に帰ったことを喜んで、深く詮索しないでいてくれた。
彼女の目をみたら俺と親方の嘘がバレているのがわかったけれども、心臓の悪いドリスに、あえて真実を告げることもないだろう。
身体の傷がだいぶ癒えてきたので、翌日から荷運び場に戻った。
俺がブルに暴行されたという話は知れ渡っていたが、別にそれはどうということはなかった。
問題はブルのやつがのこのこと地下牢から戻ってきたときのことだ。
暴行と窃盗でたっぷり三週間は押し込まれているかと思ったが、ブルのくせに地下牢ではおとなしくしていたらしく、それぞれ初犯ということでニ週間で戻ってきてしまった。
やつの顔を見た瞬間、全身の血が沸騰して、思わず殴りかかりそうになってしまったが、さすがにママルカが止めに入った。
正直言えば顔も見たくなかったが、親方いわく、いきなり追い出しても賠償金を支払うあてが無くなるだけと判断し、その分はタダ働きさせることにしたそうだ。
ただし、また問題を起こしたら即刻クビ。荷運び場の仕事をさぼっても即刻クビという厳しい条件を突きつけたという。
ブルはおとなしくそれを飲んだ。
やつを許す必要はないが、荷運び場にいることだけはどうか我慢してくれと、親方に頭を下げられてしまった。
親方にはずいぶん世話になってしまったし、仕方ない。
ここは例の仕返しだけで勘弁してやろう。
翌朝早朝、俺とママルカはウルダハの外で待ち合わせ、麻袋一杯にとあるものを集めた。
無駄な労働だとわかっていたが、せめてこれくらいしないと気が収まらない。
ブルは仕事中はチュニックを脱いで、決まった場所に放置しておく癖があった。
そこで、やつが荷運びに出掛けている最中、拾ってきたものをやつのチュニックにたんまり仕込んで、涼しい顔で仕事に戻った。
とっぷりと日が暮れ、そろそろ仕事も終わりだというときになって、「う、うわああああああー!」という世にも情けない声が荷運び場に響き渡った。
暗くて見えなかったのだろう。
そこにはヤギの糞を頭から被って呆然と立ち尽くすブルがいた。
俺とママルカ、大受け。
ひっくり返らん勢いでゲラゲラ笑っていたら、他のみんなも釣られて笑い出した。
どこからどう見ても犯人は俺たちです。ありがとうございました。
ヤギ糞を浴びて猛烈に怒ったブルがのしのしとこちらにやってきた。
本人は真剣に怒っているようだが、頭にヤギ糞を乗せたままなのが悪い冗談のようだ。
「おい、てめえらだな! わかってるんだぞ!」
「本当は牛の糞にしたかったんだけど、あいにくとヤギ糞しか手に入れられなくてさあ。すまないな」
泣き笑いしながらママルカが応戦。
怒り狂ったブルが片腕を振り上げ…たものの、さすがにここで暴力をふるって地下牢に逆戻りするのはイヤだったのか、黙って腕を下ろした。
「おまえな、仕返しがヤギ糞で済んで感謝しろよ? ヤギ糞被って死ぬやつはいないだろ?」
「どういう意味だ」
「ミコッテ族の血の復讐を知らないのか、幸せなやつめ」
腕組みをしたママルカが鷹揚に語り始めた。
ミコッテ族は、不当に傷つけられたり、近親者が殺されたりした場合、「血の復讐」という誓いをたてる。
血の復讐が正当なものであるとメネフィナが認めた場合、それは復讐者に超常的な力を与え、敵の血族は根絶やしにされる。復讐者に直接殺されるのはもちろん、なんとか逃げおおせても恐ろしい不幸が次々と降りかかって、決して生き延びることはできないのだという。
「ミコッテ族は血の復讐のために、幼いころから暗殺術を仕込まれるんだ。このムサシだって、いったん血の復讐を誓ったら、おまえの血族を根絶やしにするんだぞ?」
暗殺術か。恐ろしいなあ…ミコッテはなんて恐ろしいんだ。
ちなみに俺もはじめて聞きました。
途中までは合っているが、半分以上はママルカのでたらめだ。
あまりに適当なことをペラペラしゃべるもんだから、おかしくて今にも吹き出してしまいそうだが、ここで笑ってしまってはママルカの作り話が無駄になってしまう。ほら見ろ、ブルは本気でびびっているようだぞ。
「ち…血の復讐だと…」
「血の復讐には恐ろしい呪いもある。触れたものすべてクソになってしまうという呪いだ」
そこに絡めてくるとは予想外すぎた。
ブルが真剣に怖がっているのが面白すぎて、さすがに我慢の限界だった。
俺はいきなりまわれ右をして荷運び場から走りだし、市場まで行ってから大爆笑した。
まわりの人にはぎょっとされてしまったが、そんなことをいちいち構っていられない。
くそっ…ママルカのやつ…! 笑うとまだ肋骨に響くんだっての!
きっとあいつのことだから、俺が急に走って行ったことにも適当な理由をつけて脅しの材料にしているだろう。
まんまと騙されて顔面を蒼白にしているブルの顔が目に浮かんだ。
しばらく時間をおいてから荷運び場に戻ると、得意満面なママルカが待っていた。
「おいおい、ブルが盛大にビビっちゃったぞ。おもしれぇ。やっぱあいつ馬鹿だな」
「まさか、触れたものをすべてクソにするとかいう呪いのことも信じちゃったのか?」
ブルはすでにいなくなっていた。ヤギ糞を頭に乗せたまま帰ったのだろうか。
仕事帰りに娼婦の家にしけこむのが唯一の楽しみのようだったが、さすがにあれでは断られるだろう。
「ああ。あいつ、ご執心のミコッテ嬢がいるからな。あんまりしつこく迫ったら血の復讐の呪いで、いまにクソの飯を食う羽目になるぞって脅しといた。あー愉快。あースッキリした」
ママルカは晴れ晴れとした笑顔だが、相変わらず最低だ…。
「どうでもいいけど、ヤギ糞だらけじゃないか。これ、俺たちが掃除するんだよな?」
「あっ!畜生、ブルのやつ…! 糞を掃除しないと呪いがかかるってことにしとけば良かった!」
仕方なくふたりで散らかったヤギ糞の掃除をしたが、その間、ママルカも俺もずっと笑いっぱなしだった。意外なことに、仕事の手が空いた連中も掃除を手伝ってくれた。
あまりにバカバカしいので、ブルを殺したいという気持ちは当然どこかへ消え失せていた。
帝国と三国もウンコを投げつけあって戦えばいいのにな…。
ママルカの大嘘のせいで、俺が暗殺術の使い手であるという妙な噂までたってしまったのだが、それはまた別の話だ。