CYDONIA
第十二話「天空を渡る風」
後にいう「第七霊災」の爪跡は、エオルゼア各地に残った。
ウルダハは上層部が大きな被害を受け、国のシンボルでもあった美しい尖塔がいくつも失われた。
建物の倒壊、火災によって多くの人命が失われ、また、災害に乗じて攻めてきたアマルジャ族によって、塀の外に住んでいた流民たちの半数以上が殺された。
国も人もひどく痛めつけられ、荒廃し、それまでの日常は一気に失われた。
大門の前に集められた犠牲者たちの亡骸は荼毘に付すことになった。
ウルダハでは土葬が一般的なのだが、感染症の蔓延を防ぐために火葬にすべしと通達があったのだ。
これには一悶着あったのだが、大多数の市民は理由を聞いて渋々納得し、聖職者の尽力で弔いの儀式も執り行うことができた。
ドリスの亡骸もこのとき一緒に火葬にし、俺は遺灰をレオンの墓のとなりに埋めることにした。
いつのまに自生したのか、彼女が好きだった花がレオンの墓に寄り添うようにしてたくさん咲いていた。
大災害からしばらくは国中が暗い影に覆われていたが、やがて人々は日常生活を取り戻すために立ち上がった。
復興計画はすみやかに策定され、商業組合の手によって仕事を細分化されて、街の掲示板には復興関係の仕事が多く貼りだされるようになった。
皮肉にも、ウルダハを襲った悲劇が行き場を無くした流民たちに仕事と住処を与え、市民との垣根も取り払うことになったわけだ。
親方は荷運び場を再開した。
混乱期に最も必要とされているのは物資の安定供給だから、こちらも仕事に事欠くことがなかった。
俺は親方の片腕として昼夜を問わず働き続け、そして体に限界がくると家に帰って死んだように眠った。
それから一月もすると、戦地からぽつぽつと負傷兵が戻ってくるようになった。
不滅隊のラウバーン隊長は無事で、ほうぼうに散っていた生き残りの兵士たちを組織して帰還したらしい。
そして帰還者たちによってカルテノーで起きた出来事が語られるようになると、俺の見た幻が現実にあったことなのだということがわかった。
ダラガブから生まれ落ちた忌まわしい黒竜によって、あのとき戦場にいた人々は跡形もなく吹き飛んでしまい、そして、骨すら残らなかったのだと。
ママルカは戻ってこなかった。
チャチャピはウルダハの家を引き払い、郊外の実家に帰った。
家業を手伝って欲しいというので、ときたま彼女の家に行くことはあったが、ママルカから送られてきた遺書はどうしても彼女に手渡せないままだった。
これを渡してしまったら、俺までママルカの死を認めたことになってしまう。それだけ嫌だった。
「戦死したって知らせをもらうまでは、どこかで生きてるって信じてる」
チャチャピは哀しそうに微笑みながら言った。俺もそう思った。
口を開けば下品な冗談ばかり言うやつだったけど、約束は一度も破ったことがなかったから。
唯一の家族であったドリスがこの世を去り、親友の生死は不明なままで、俺は第七霊災以降、ただ漠然と毎日を生きるだけだった。
そのころの日課といえば、荷運び場での仕事を終えてから、酒場に寄って飯を頼み、一緒にぬるいエールをちびちびと飲むことだった。
正直、酒の旨さはよくわからないままだったが、ママルカがいつもこれを美味しそうに飲んでいたし、酒場の喧騒は嫌いじゃなかった。
ここにいると、ママルカと馬鹿話をして笑いながら過ごしていた頃を思い出せる…。
その日もひとりで黙々と食事をして、エールを飲み干したところだった。
テーブルに代金をおいて立ち上がったら、誰かが俺の肩にぽんと手をかけてきた。
「おお? 小僧じゃねぇか! 久しぶりだな!」
聞き慣れた声に振り返ると、なめし革のコートを着たハイランダーの偉丈夫が腰に手を当てて立っていた。シグだ。
そういえば、あの朝以来ずっと姿を見ていなかったことを思い出す。
ふと、彼の前で子どもみたいに泣いてしまったことを思い出して照れくさくなった。
「その…あのときは、どうもありがとう…」あらたまって頭を下げると、
「ん? いや、いいって。気にすんな!」
シグは相好を崩して人懐こく笑う。それから俺の背中を勢い良く叩こうとして、躊躇するような様子を見せた。
「…怪我、もう治ってるよな?」
「さすがに二月も経てば治るって」
「そっか! ならいいな!」
そのまま馬鹿力でひっぱたかれ、思わず「いってぇ!」と声を上げてしまった。一体何がいいんだか…。
シグは愉快そうに笑いながら椅子に腰をおろし、俺にもとなりに座るよう促した。
ウェイトレスに声をかけ、ニ杯分のエールを注文する。なんでニ杯なのかと思ったら、届けられたジョッキの片方を俺の目の前に勢いよく置いた。
「ほれ! 俺の奢りだ! 景気づけに飲め!」
「ええ…?」
「なんだなんだ、その嫌そうな顔は。俺の酒が飲めないってのか?」
「そんなことないよ。じゃ、ありがたく…」
旨そうに大ジョッキのエールを飲み干すシグを見ながら、仕方なく俺もジョッキに口をつけた。
が、さきほど一杯飲み干したばかりだし、さすがに一息で飲み干すのは無理だ。
「ぷあーっ。一仕事終えたあとはコレに限るな! つうか、もうだいぶ飲んでるんだけどな! はは!」
「あの、シグ、おれ、酒はあんまり強くないから…あとさ、小僧はよしてくれよ」
「だって俺、おまえの名前聞いてねぇし」
思わずきょとんとしてしまった。
「名前、言ってなかったっけ?」
「聞いてねぇって言ってるだろうが。絞め殺すぞコラ」
「ムサシ」
酔っぱらいに絞め殺されちゃかなわないので急いで名乗った。
今度はシグがきょとんとする番だった。
「ムサシぃ? ずいぶんとミコッテらしくない名前だな? それ、お前の本当の名前か?」
「ミコッテの名前もあったような気がするけど覚えてない。ムサシはもともと父さんと母さんの息子の名前なんだ」
それで、俺がウルダハにやってきた経緯、レオンとドリスに拾われたことなどを話した。
養父がアラミゴ出身だということを教えると、シグは急に得心がいったような顔で手を叩いた。
「なるほどな。ムサシってのはアラミゴ人が好きな東方の剣豪の名前なんだよ。滅法強かったらしいぞ」
「へえ…」
そういえば、名前の由来はレオンも教えてくれなかったな。道理でウルダハでもあまり聞いたことがないわけだ。
シグは得意気に、その剣豪が編み出した戦法の数々や、剣技について語ってくれた。
性格と見た目で勝手に肉体派かと思い込んでいたが、意外にも博識のようだ。
「剣豪かぁ…。そういえば、シグは剣は使わないのかい」
「剣も一応使えるけどもなぁ」
そう言って、さらに追加の酒を注文する。いったいどれだけ飲めば気が済むんだろう。
「剣は取り上げられたらそこまでだろ? 丸腰になったらどう戦うんだ?」
「たとえば…捕虜にされたときとか?」
「そう、そういうことだ」
シグの言わんとしていることがなんとなく理解できた。
剣はもちろん強い。けれども、剣がなければ力を発揮できない。
災害に乗じてアマルジャが急に攻めてきたときのように、丸腰のまま敵と遭遇してしまうことだってありうる。
そういうときに武器になるのは己の肉体だ、ということらしい。
「シグ。…俺に、格闘術を教えてもらえないだろうか」
ふと、思いついたことをそのまま言ってみた。
当たり前だが、俺はミコッテで、ハイランダーに比べるとずいぶんと身体が小さい。
格闘術を習ったところでシグのようにアマルジャに太刀打ちできるのかどうかもわからないが、それでも何もできないよりはマシだと思った。
テーブルに届けられた追加の酒を勢いよくあおってから、シグはこちらの目をじっと見つめた。
細められた淡黄色と紫色の双眸が、俺の本気をはかっているかのようだ。
「いいぞ。ただし…」
「ただし…?」
「酒の飲み比べで勝ったらな」
「よ、よし! 受けてたってやる!」
「俺はもうかなり飲んでるからな? ハンデくれてやってんだからな? わかるな?」
こういうことはよくあるのか、シグがウェイトレスに耳打ちすると、さっそく酒の入った大瓶と、小さな盃がふたつ、それと二色に塗られた小さな石ころがたくさん入った器が運ばれてきた。
なるほど、飲んだらこの石ころをテーブルに並べていくわけか。
さっそく互いに一杯ずつ酒を注いで、ぐっと飲み干す。エールとは比べ物にならないほど強い酒だった。うへっ。
俺の焦ったような表情を見て、シグはニヤニヤしながら小石をひとつテーブルに置いた。俺も自分の前にひとつ。
「手加減なんてしねぇぞ。お前の本気を見せてみろ」
そういうわけで、何故か俺はいま、大勢の見物人に囲まれて、死に物狂いで酒を飲んでいる。
三杯目を飲んだあたりからぼうっとしてきて、五杯目でろれつがまわらなくなり、酒の味もしなくなった。
だいたい、なんでこんなことになっているのかさえよくわからなくなってきている。
「おかいい? みずなろに、めがあわる!」
「水じゃねぇよ。酒だよ。おい大丈夫か?」
「だい…だいろーぶ!」
全然大丈夫じゃなかった。飲めば飲むほど世界が崩壊してくる。
さっきから喋っているのは口だが、酒を飲むのも同じ口だということになぜだか違和感を感じた。
そして、お互い十杯目を一気に飲み干したところで、ついに天井がぐるぐるとまわりはじめた。
テーブルを挟んで対峙しているシグは、顔色ひとつ変わっていない。悔しいくらい余裕の表情だ。
見物人たちは勝手に盛り上がり、賭けまで始めている。シグに賭けているのがほとんどで、俺はもちろん大穴だ。
その人垣を割ってお団子頭に髪飾りを光らせたララフェル女性がひょっこりと顔を出した。酒場の主人のモモディだ。
「ちょっとあなたたち。景気よく飲んでくれてお姉さん嬉しいけど、そっちの坊やが今にも倒れそうよ?」
「止めてくれるな。これは男と男の戦いなんだ」
俺もなにか言おうと思ったけれども、無理だ。もう無理。ぜんぜん無理。
頭がさっぱりまわらないし、迂闊に口を開けたら全部吐いてしまいそう。おえ。
「あーはいはい。わかったわ。でも倒れる前に部屋に引き上げてちょうだいね? あたしは手伝ってあげないわよ」
手をヒラヒラと振ってモモディは去っていった。
せっかく勝負をやめるきっかけが来てくれたと思ったのに、あっさり行ってしまうなんて。ああ…。
「耳まで真っ赤だぞ坊主! そろそろ降参か? ああん?」
「うっ…う…、うっせーばか!」
精一杯強がったが、顔も身体も暑くてカッカするし、なんだか尻尾がムズムズしている。たぶん背中の傷も真っ赤に浮き上がっているだろう。
息苦しいし、ヤバイくらい世界がぐるぐるまわっているが、とにかく一杯でも多くシグをリードしなくてはと思い、俺は立て続けにニ杯あおった。
「おい、弱いくせにムキになるなって!」
「やだね!」
バチーンと威勢よく小石をふたつテーブルに叩きつけた…のはいいが、弾みでまっすぐに座っていられなくなり、俺は椅子ごと無様にひっくり返った。
盃が転がり、酒瓶がテーブルから落ちるけたたましい音。「ほら! いわんこっちゃない!」と遠くで叫ぶモモディの声。
「あっ! こら! 小僧! チビ! まだ気を失うんじゃない!」
どこかで聞いたような台詞が聞こえる。名前を名乗ったのに、またそれかよ…。
残念ながら、俺の意識はここで唐突に途切れた。
息苦しい…それに、うえっ、めちゃめちゃ酒臭い…。
吐き気はそれほどでもないが、こめかみのあたりがガンガンと激しく痛む。
最悪な気分で目覚めると、これまた最悪な状況が待っていた。
まず、今いるのはどうやら宿屋の部屋らしい。
俺が寝ているのは、部屋に一台だけのベッド。
そして、シグが寝ているのも同じベッド。
あろうことか、シグは大の字になって高らかにイビキをかき、俺の首に太い腕を巻きつけているではないか。
ぐわ! どうしてこんなことになってる!? 苦しい! 死ぬ! 息が詰まって死んでしまう…!
太い腕を退けようと必死でジタバタもがいていたら、「う~ん…」という声とともにシグが寝返りを打った。ようやく重い腕から解放され、あわてて上半身を起こす。が、あまりの頭痛に頭を抱えて呻き声をあげてしまった。
ふと横を見たら、シグが目をパチクリしていた。そりゃ、こんな状況なら驚きもするよな…。
「なんでお前、俺のベッドで寝てんの!? ま、まさか…」
「ちがう!」
叫んだ途端、こめかみに尖ったものを突き刺されたような痛みが走った。
いたっ! 痛い! アタマが猛烈に痛い…!
しかし、シグがあんまり慌てるもんだから、俺まで一瞬でもまさかと思ってしまったじゃないか。
ないない。絶対にない! 知らない相手ならまだしも、知り合い相手は無理!
「いや…待てよ? 酒場でお前を見つけて、声をかけたのは覚えてる…」
「酒の飲み比べをしたのは?」
「知らん」
うわ…うわああああ…! なんだそりゃー! 命がけで勝負したのに、完全に忘れてる…!
急に気が抜けてしまい、俺はバタリとベッドに倒れた。ダメだ。頭が痛すぎる。なにも考えられん…。
仕事でもないのにおっさんと同衾というのはぞっとするものがあったが、この頭痛ではそうも言っていられない。
「俺が…俺が馬鹿だった…。死にたい…むしろ消えてなくなりたい…」
「なに!? なんでそんなに絶望しちゃってんの!? やっぱ俺なんかしたか? 俺はどっちかってぇと女のほうが好きなんだが…!」
「どういう意味だよそれ…」
なんだこのアホみたいなやりとりは…。
ふと、ママルカとの会話を思い出して久々に笑いがこみ上げてきたが、いまはくすくす笑いすら頭に響きそうだ。おお…もう…。
そのとき、部屋の扉をこつこつと叩く音が聞こえた。
「はいはい、お邪魔するわよ? いいわね? 入るわよ? 入っちゃうからね?」
やけにしつこく念押ししながら、手にカゴを下げたモモディが入ってきた。
ベッドの上にいる俺たちふたりを見て、目を丸くする。
「あら。お邪魔だったかしら?」
「ちがう!」「ちがう!」ハモった。
「そう。なら入らせてもらうわね。朝食を主人自ら運んできてあげたわよ。感謝なさい」
モモディ女史はとことこと部屋の中に入ってきて、カゴをテーブルの上においた。
パンの香ばしい香りがする。それと、焼いた腸詰め肉の匂い。
それから彼女は背伸びしてカゴの中に手を伸ばし、取り出した革の水袋をわざわざベッドの俺に渡しにきてくれた。
「頭、痛いでしょう。水を飲んでおいたほうがいいから、これ」
「あ…ありがとう…」
革袋に口をつけたら、少し柑橘系の香りがした。どうやら、飲みやすいように果汁を混ぜてあるらしい。
モモディらしい気遣いがうれしい。
「それからシグ、あなたはどうせ昨夜の記憶がないでしょ? なにがあったか教えてあげましょうか?」
「お…おう…」
モモディが言うには、俺が呑み過ぎてぶっ倒れたあと、シグ自ら負けを宣言したそうだ。
で、酔いつぶれている俺をひょいと担ぎあげて部屋に引き上げていったらしい。
まさかの大穴で乱闘が起きそうになったらしいが、それは俺達の責任じゃないだろう。
「と、いうわけで、お代をいただきに上がったのよ。はい」
昨日飲み食いした分の請求書をぐいと付き出してきた。
受け取ったシグが「ああ!?」と声をあげる。どうやら痛い出費になってしまったらしい。
ほとんどはシグが飲んだ酒代だと思うけど、勝負の半分くらいは出さないとダメかな…。
「これ以上のツケはダメよ? ウルダハの復興に協力すると思って、これからもジャンジャン呑みにきてちょうだい。それじゃあ、ごゆっくり」
「まいったなぁ…」
口に手を当ててウフフと笑うと、モモディは部屋を出て行った。
彼女の態度から察するに、シグはここの常連らしい。
代金は払えるのかと聞いたところ、それは問題ないとの返答だった。ただ、調査費がどうこう、滞在費用がどうこう、ぶつぶつつぶやいている。
「なあ、おい。ムサシ、お前、どこに住んでんだ?」
「下層。新門の近くだけど」
「いままでおっかさんと住んでたならそこそこ広さはあるよな? よし、今夜から俺を泊めろ」
「はあ!?」
いきなり、なに言っちゃってんですかこの人は…。
「いいだろ! かわりに格闘術教えるからよ! なっ!」
「なんだよそれ! そんなら最初から飲み比べなんか…あいてて…」
頭痛に顔をしかめながら、ふと気づいた。
シグが俺の名前を躊躇なく呼んだこと。それから格闘術を教えると自分から言ってきたこと。
もしかして、これはすべてシグが仕組んだことだったんだろうか…。
シグの企みはさておき、その日のうちに彼は身の回りの荷物を持って俺の家に転がり込んできた。
日中は仕事に出ているし、その間、特に来客があるわけでもないので、部屋は好きに使っていいと伝えると、彼はどこからともかく毛布を調達してきて、部屋の隅に落ち着く場所をこしらえてしまった。
シグはシグでなんらかの仕事をしに毎日でかけているようだったが、空いた時間は約束どおり俺に稽古をつけてくれた。
格闘術の師範としての肩書もあるそうだが、実用第一主義らしく、彼の教え方はとにかく実践的だった。
「いいかムサシ。格闘士には飛び道具がない。だが敵の意表をつくことは大事だ。どうする?」
「どうするって? うーん、蹴ると見せかけて殴る、みたいな?」
「フェイントか。それもいい。だがな。意外と効果があるのが…」
いきなり回し蹴りを食らってふっとんだ。
「話しながら急に攻撃することだ。はっは。避けられなかったろ?」
「ひ、卑怯だー!」
「卑怯だっていい。命をかけた勝負にルールなんぞねぇ。最後に立ってたもんが勝ちだ」
一理ある。
手段を問わず、勝つためならなんでもしろ。
ためらうな。最後まで決して諦めるな。
彼の教えには迷いがなく、単純明快でわかりやすかった。
ミコッテの生き方にもそんなところがあるけれども、彼はそれを体現している人物だった。
シグは急にふらっといなくなったかと思うと、数日経って戻ってくるということが度々あった。
詮索はしなかった。いつか機会があれば教えてくれるだろうと思っていたし、こちらにも教えたくないことくらいある。
そんな風に、妙な同居人ができてからはやくも一年が経過しようとしていた。
シグに格闘術の手ほどきを受けながら、基礎体力をつけるための運動も毎日欠かさずやっていたから、今ではシグとまともに手合わせができるようになっている。
その日はとっぷり日が暮れてから、いきなり稽古をつけてやるなんて言い出した。
家の中で暴れるわけもいかないので、人通りの少ないエラリグ墓地の近くまで足を運ぶ。アマルジャと俺がはじめて対峙した場所だ。
まずふたりで向き合いお辞儀をする。それから互いに軽く突きや蹴りを繰り出し、徐々に身体を温める。
「ミコッテは運動神経が良いな。思いのほか上達がはやい」
「だけど攻撃に重さがないから、やっぱりシグみたいには戦えないよ」
「そうだな。俺には重さと大きさという強みもあるから、大型の敵とも真正面から渡り合える」
言いながら、シグは身体をぐっと低く構えた。
気づいて咄嗟に横に避けたら案の定だった。突進をかわされたシグは踵を軸にしてくるりとこちらに向き直る。
「ミコッテの武器はその身軽さ、俊敏さだ。敵を翻弄しろ。懐に入れ」
今度はこっちが唐突に距離を詰め、シグの脇をすり抜けて背後に立ってやった。
そのまま背中に正拳突きを入れようとしたが、即座に反応され、拳を受け止められた。くそっ。
「今の場合は下段にまわし蹴りがいい。意表をつくことができる」
「顔を殴るのは?」
「それもありだが、お前チビだし届かないだろうが」
ゲラゲラと楽しそうに笑われてしまった。
そりゃあ、シグに比べたらチビだし、この先、背が伸びることもなさそうだけどさ…。
「ああ、悪い悪い。チビって言われるの嫌いなんだっけか」
「いいよ、別に。チビだし…」
「そう不貞腐れるなって。よし、今夜はちと良い飯を奢ってやろう」
お詫びのつもりなのか。シグに連れられていったのは、政庁層の高級酒場だった。
このあたりもだいぶ復興が進んでいるらしく、最後に火事で騒然となっていた様が想像できないほど元どおりになっている。
酒場は上等な服を着た商人や役人たちで賑わっていた。これはちょっとまずいかも…。
思ったとおりだ。俺が娼館にいたときに見かけた顔が何人かいる。
高級娼館は秘密の商談の場としても活用されていたようで、それ目的で訪れてくる商人たちも多かった。もちろん、商談をしながらお楽しみのほうもという者だっているわけだが。
シグは俺の内心などまったく気づかない風で、ウェイトレスにいくつかの料理と酒を注文している。
俺はできるだけ他の客から顔が見えない席に座った。
そう、今になって思い出したのだが、俺は仕事中は共通語がわからないふりをしろと言われていたんだった。
こんな風体だし、実際ウルダハにたどり着いた時点では共通語は知らなかったわけだから、わからないふりをするのは容易かった。
どうしてそんなことをしなくちゃならないんだと聞いたら、そのほうが客も娼館を便利に使えるからということだった。
なるほど、秘密の商談や知られたくない話をするのに都合がいいものな…。
「値段ははるが、こっちの酒や料理のほうが美味いよなあ。あっ、モモディには内緒だぞ!」
「はは。そうだね」
ふたりで料理を食べ、酒を飲みながら、当たり障りのない会話をする。
ふと、シグがときたま俺の向こうに鋭く視線を走らせているのに気づいた。誰か見張っているんだろうか?
そこでわざとフォークを落とし、それを拾いながらちらりとシグの視線の先を確認した。
そして見たくないものを見てしまった。何度なく娼館で俺が相手をした男の姿を。
そいつは浅黒い肌の軽薄そうな男で、後ろに撫でつけた銀髪に、整えたあご髭を生やしている。
いつも胸元が大きく開いた砂漠風の服を着ていたのを覚えている。
いまは多少質素な身なりになっているが、間違いない、あいつだ。名前はなんていったっけ…。
シグが見張っているのはあいつらしい。でも、どうして?
元通り椅子に座り直しながら、あいつが客としてやってきたときの記憶をたぐってみた。
あいつはたいてい、おどおどした目つきのもうひとりの男を伴ってきていて、商談らしき話をしながら俺を組み敷くのが好きだった。どうやら情事を人に見せつける趣味があるらしい。
身体を売っていたとはいえ、俺にだって羞恥心も矜持もある。
だから、俺を食い入るように見ているもうひとりの男の視線から顔をそらそうとしたり、なんとかして声をあげまいと頑張っていた。
ところがかえってそれがあいつを喜ばせてしまった。手枷や足枷で身体の自由を奪われたり、目隠しをされたりした。そのうえで手荒に扱われるものだから、さすがに悲鳴をあげることさえあった。それから…。
「そうだ、あいつを追ってる」
シグの声で我にかえった。俺もあいつを観察していたことに気づいたらしい。
食事を続けているふりをして、低い声でこう続けた。
「あいつは表向きは商人だが、ウルダハの密偵だ」
「みってい?」
「ああ。国の勅命を受けて他の国の内情を探ったり、敵の情報を集めたりする裏の稼業さ。だが、あいつにはもうひとつの顔もある。帝国の密偵という顔がな。」
「…どういうこと?」
「あいつは帝国の情報をウルダハに渡しながら、ウルダハ側の情報を帝国に売ってやがった。これまでずっと内偵を続けてきたが、ようやく尻尾を掴めた」
いつも陽気なシグが珍しく苦々しい顔をしている。
「あいつが…あいつのせいでアラミゴや帝国に潜入している俺の仲間たちが一斉に捕らえられた。ひどい拷問の末に殺された者だっている」
「つまり、シグも密偵ってこと?」
「ああ。そしてあいつの裏切りによって帝国に捕らえられたひとりだ。俺のこの片目、生まれつきのものだと思ったか?」
淡黄色と紫色のオッドアイ。珍しいなと思っていたが、生まれつきではなかったらしい。
そういえば、シグは右側に立たれるのをなんとなく嫌がっていた。もしかして片方の目はあまりよく見えないのかもしれないと感じることもあったが…。
「帝国兵に拷問されてな。殺さず苦痛を与える方法をあいつらは心得てやがる。あやうく正気を失うところだったが、たまたま潜入してきた同業者に助けられた。もう何年も昔の話だ…」
シグが身の上を語り始めるとは思ってもみなかったことだが、それだけ俺を信用してくれたということなのかもしれない。
いろいろと考えていたら、急にシグが席を立った。俺にも立つよう促す。
視線を追うと、あいつが店を出て行くところだった。
「おまえを連れてきたのはあいつを捕らえるためだ。協力してくれるな?」
俺はシグの目を見つめ、黙って頷いた。
やつの行き先はシグがだいたい把握していたから、ふたりで挟み撃ちにするのは容易いことだった。
俺がわざと気配を消さずに男を追うことで警戒させ、待ち伏せしているシグが捕らえるという作戦だ。
はたして、俺たちは人気のない路地裏にまんまとやつを追い込み、気絶させて家に連れ帰ることに成功した。
家につくと、気を失ったままの男を椅子に座らせ、後ろ手と両足を椅子に縛りつけた。
それからシグがやつの頬を手荒に叩く。
気絶から覚めた男は何度か目を瞬くと、目の前に立っているシグの顔を見て驚きの声をあげた。
「おまえ…シーグフリード!? 生きてやがったのか…」
「いよう、久しぶりだな。ジェルモン。しばらく見ないうちにずいぶん羽振りが良くなったじゃねぇか」
腕組みをしたシグがジェルモンを見下ろして、影のような暗い笑みを浮かべた。
シグはジェルモンに復讐心を抱いているはずだが、殺気は露ほども感じられない。強い自制心の賜物だろうか。
「おまえにはいろいろと聞きたいことがあってな。身に覚えがあるよな?」
「一体なんのことだ。仕事はきっちりやってるぜ。…ん?」
ジェルモンの視線が、壁に背を預けてシグの尋問を見ていた俺に注がれた。
さすがにこの至近距離ではやつに気づかれないわけがない。
「あいつ…娼館にいたミコッテの男娼じゃねぇか。シグ、おまえの手駒なのか?」
「ああ? いったいなんのことだ」
「間違いねぇ。はっきり覚えてるぞ。娼館ではマウとか呼ばれてたよな、お前」
尋問しているやつに質問されてたまるか。俺は黙ってジェルモンを睨みつけた。
マウ…そういえば、そんな風に呼ばれていたかもしれない。猫って意味らしい。
ふと冷たい首輪の感触を思い出して息苦しくなった。ダメだ、いま目をそらしたら。
「話を逸らすな。お前、仲間を売っただろう」
「はぁ? 仲間って? なんのことだ。俺に仲間なんていねぇよ」
「しらばっくれるのもたいがいにしろ。お前が帝国の密偵だって裏はとれてる。地下牢に連れて行く前に申し開きを聞いてやろうとしただけだ」
ジェルモンの顔が苦しげに歪んだ。
シグに対しては言い訳が通用しないことを悟ったらしい。額に脂汗が浮かんでいる。
ふたたび俺の顔をチラリと見たジェルモンの目がずるそうに光った。
「なあ、シグ。こいつ、こう見えてなかなか強情だろ?」
「ああ、まあ、そうだな」
やつが言っていることは意味合いが違うが、シグは相槌を打った。
ジェルモンが口元を歪めて、俺に向かって話しかける。
「おまえ、縛られるの好きだよな。代わってやろうか。いつも縛っただけで震えだして、突っ込むといい声だすもんな」
好きなものか。ブルに暴行されたときのトラウマがあるだけだ。
おまえこそ、こっちが嫌がっているのをわかってて、思う存分いたぶってくれたよな。
頭が沸騰しそうなほど熱くなった。あのとき受けた辱めと痛み、怒りが全身に満ちる。
抑えていても手が震えた。腰のベルトに挿しているナイフのことを強く意識する。
俺の具合がどんなだったか。
どんな風に突いてやると声をあげるのか。
いつも強情に我慢しているが、どのようにすると観念するのか。
「ふたりがかりで足腰立たなくなるほど可愛がってやったよなぁ。覚えてるか?」
ジェルモンは薄笑いを浮かべながら得意気にぺらぺらとしゃべった。シグは黙って聞いている。
うるさいな…。誰かこいつを、うるさいこの口を黙らせてくれ。
いや、黙らせるのは簡単だ。やつの後ろに立って、このナイフで喉を切り裂いてやればいい。
そうすれば聞きたくもないことを聞かされずに済む。
頭の中で、やつを殺すところを想像した。
それはあっけなく果たされ、やつは喉から大量の血を吹き出しながら絶命する。
返り血を浴びた俺は凄絶な笑みを浮かべ、それから、喉を切り裂かれて事切れたジェルモンも笑っている。
笑っている…。
唐突に気づいた。こいつは、俺を激昂させて口封じさせようとしている。
いまにもナイフに右手をかけてしまいそうだったが、ぐっとこらえた。
目を閉じて深呼吸する。沸騰していた頭の熱が急激に冷め、かわりにひやりと冷たい氷のようなもので満たされた。
「話はそれで終わりか」
俺が口を開くと、ジェルモンがしまったという顔をした。
「俺はシグの手駒じゃない。でも、いつもおまえらの話は聞いてた。たしか、草を集めて刈り取るって言っていたな」
思い出す。こいつの下卑た笑いと、おどおどした相棒の血走った目。
おまえもめちゃくちゃにしてやりたいんだろ?と、こいつは相棒に声をかけ、縄で俺の両腕を縛って、それからふたりがかりで好きなようにされた。
そのときに話していたのが、符牒めいた会話だ。俺は苦痛の声をあげるばかりだったが、すべてしっかりと覚えていた。
淡々とした口調であのとき聞いたことを話していくたび、やつが顔色を失っていくのがわかった。
意味はわからないが、どれもこれもやつが帝国側の密偵であるという証拠を裏付ける内容であるらしい。
シグはそれも黙って聞いていたが、やがて俺の肩に手をおいて遮った。
「わかった。もういい、ムサシ。相棒とやらの顔は覚えているだろ?」
俺は頷いた。
シグも俺に頷き返すと、今度はジェルモンを縛り付けた椅子のまわりをゆっくりと歩きはじめた。
「俺は我慢強いほうだがな。帝国で受けた拷問、あれはさすがにこたえた」
ジェルモンは俯いてブルブルと小刻みに震えている。顔色は白く、脂汗がこめかみを伝っていた。
いま口を割らなくても、いずれ地下牢に連行されてすべて白状させられてしまうだろう。
「知ってるか。指先は神経が集まっていてな。爪の隙間に針を刺されるだけでも気が遠くなるほどの痛みだ。徐々に針を増やしていってな、指先の感覚が鈍くなったら、今度は一本ずつ切り落としていく。指先からだんだん小さくなっていっても、人間、簡単に死んだりしないからな」
「う…ウルダハで拷問なんてするわけが…」
「まあ、ウルダハではやらんさ。だが、俺はどうだかわからんぞ」
シグがジェルモンの髪を乱暴に掴み、ぐっと顔を近づけてニヤリと笑った。
相変わらず殺気は感じないのに、彼の腹の底の憎悪と怒りが感じられるような凄絶な笑みだった。
やがて衛兵が数名呼ばれ、ジェルモンは地下牢に連行されていった。
やつがいつも娼館に連れてきていた相棒の特徴を聞かれたので、覚えていることをすべて話した。
衛兵とともに現れた数名がシグと何事か言葉を交わしていたが、小さく頷くと足早に家を出て行った。
シグが言うには、政府の下っ端役人の中に特徴が合致する者がいるらしい。すぐに捕らえるとのことだった。
家に静けさが戻ると、シグは椅子に腰を下ろし、やがて重い口を開いた。
「本当いうと、はじめはおまえのことも帝国の密偵かと疑っていろいろ調べていたんだ。すまんな」
「俺のこと、全部知ってたんだ。それで近づいた?」
「ああ…それが仕事だしな。因果な商売さ」
続けて、シグは静かに語り始めた。それは長い話だった。
味方だと思っていた者の裏切り。帝国によって殺された自分の妻と幼い子どもたちのこと。
帝国への復讐心からウルダハの密偵になったが、そこでもまた味方の裏切りにより、仲間の命が多く失われたこと…。
彼の底抜けの明るさは、この辛い体験の裏返しだったのかもしれない。
俺を疑っていたとはいえ、それは彼の任務だ。責めることはできなかった。
「さっきはよく堪えたな。あいつの口車に乗せられてしまっていたら、俺もお前になにをしていたかわからん」
「俺を怒らせて、殺させようとしてた。途中であいつの狙いに気づいたから、衝動を抑えることができたんだ」
「ああ、それでいい」
シグは立ち上がると、俺の肩をぽんと叩いた。
同じだ。レオンと、それから親方とも同じ。お前はよくやってると褒めてくれるときの叩き方。
「自分で下した決断をお前が恥じる必要はない。他人がどう言おうがお前の価値が変わることはないんだ」
その言葉は、俺の胸のうちにすっと入ってきて、そしてすとんと腑に落ちた。
そうか、はじめから恥じることなんて、何一つなかった。
自分が正しいと思うことをして生きなさい。
誰がなんと言おうと、おまえの生き方はおまえ自身が決めることだ。
おばあの言葉が鮮やかに蘇ってくる。
いつの間にか夜が明けて、外は明るくなっていた。すでに日が高い。
家を出ると、覆いかぶさるような建物の間に、ウルダハの高い空が見えた。
深く息を吸い込むと、清涼な風の匂いがした。天空を渡る風の匂いだ。
視界が開け、頭が鮮明になり、身体の底から力が湧いてくるような気がした。