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第四話「あるヒューランの名」

獲物を見つけたら、必ず風下から姿勢を低くして近づくこと。

自分の輪郭が意識からぼやけるくらい、集中して気配を消すこと。

それから静かに弓を構え、息を止めて一気に弓弦を引き絞って…。

 

鋭い風切り音を残して矢が飛んでゆき、獲物の向こうに突き立った。

野うさぎがぴょこんと跳び上がり、土煙をあげて慌てて逃げて行く。

 

「ああ…」

 

俺はがっくりと肩を落とした。まったく弓の扱いがダメな生徒だった。

師匠であり、狩りの名手である母が見ていたら、なんと嫌味を言われていただろう。

 

ミコッテ族は弓の扱いに長けていると言われていたが(そして実際、大多数のミコッテはそうだったが)、俺は小さいころから剣や斧を奮って直接戦うほうが得意だった。 

なにしろそのほうが余計なことを考えなくても勝手に身体が動くから。

野うさぎはすばしこいから弓でしか仕留められないが、このあたりに棲むモグラは足が遅いので、そっと近づいていって短剣を一気に突き立てれば簡単に仕留めることができた。

母は口を酸っぱくして弓を使えと言っていたが、まさか手ぶらで帰るわけにもいくまい。

 

そうやって仕留めた大小のモグラを麻縄に結びつける。モグラばかりだものだから、肩に担ぐと芋を掘ってきたように見えなくもない。

本音を言うと、モグラより野うさぎのほうが美味しいのだが、ここはどうにかモグラで勘弁してもらおう。

 

洞窟の方角に戻りながら、薬草を摘んで、腰の袋に詰め込む。

母はかすり傷だと言ったが、日に日に足の状態は悪化する一方だった。

最初のうちは少し腫れている程度だった。だからふたりで狩りに出て、狩りのコツを教わりながら野うさぎも狩った。

数日すると怪我をした箇所がぱんぱんに腫れ上がり、痛みと熱でつらそうだったので、俺ひとりで狩りに出るようになった。

で、ひとりでは野うさぎがどうしても狩れなくて、このざまだ。

 

薬草ををすり潰したものを患部に塗ってボロ布を巻いておくのが精一杯の手当だった。

少し医術の心得がある流民によると、ふくらはぎが壊疽をおこしているので、毒が全身にまわらないうちに足ごと切り落とさないと命にかかわるということだった。だが、母がそれを頑なに拒んだ。

 

片足を無くしたらもう狩りができない。追手から逃げることもできない。

どうせ死ぬのならこのまま死にたい、と。

 

同じように命を落としたミコッテの狩人を何人か見てきたから、俺にもわかる。

怪我をした箇所が赤く腫れ、そのあとだんだん黒ずんできて、高熱と目眩に苦しみ、錯乱して死に至る。

母の命はもって数日というところだろうか。

 

せっかく逃げおおせたのに、これからふたりで暮らしていこうとした矢先なのに。

考えれば考えるほど暗い気持ちになるだけだったので、俺はなにも考えないようにしながら帰路を急いだ。

 

狩ってきた獲物を流民の長に全部渡し、洞窟の奥で冷たい湧き水を汲むと、俺は熱に浮かされる母の元へ走った。

水にひたして固くしぼった布で身体の汗を拭ってやってから、もう一度布を絞って額に乗せる。

薬草をすり潰して布に塗り、足に巻いてあったものと取り替えた。

はやくも怪我の箇所が黒くなりはじめている。こうなると痛みも感じなくなるが、今度は身体に毒がまわりはじめるのだ。

母がうっすらと目をあけた。

 

「おかえり。弓は使えるようになったかい」

「ゆ、弓は…うん。そのうち、使いこなせるようになるよ」

「そうか」

 

嫌味すら言われなかったのでひどく拍子抜けした。というより、すでに怒る力も残っていないのかもしれない。

どうしよう。どうしたらいいんだろう…。

俺は熱っぽい母の手をきつく握りしめた。

 

「噂話を聞いた。何人かのミコッテが、このあたりで目撃されたらしい」

 

母の身体は熱を帯びて熱いのに、冷水を浴びせられた気持ちがした。

追手だ。俺たちの痕跡を追って、ついにここまでやってきた。

 

「誰かを探している風だったそうだ。ここが見つかったら私たちの居場所も簡単にバレる」

 

とはいえ、こんな状態の母を連れて逃げおおせるものではない。

いっそのこと不意打ちに出てみようか…。

 

「馬鹿だね。オマエが独りで出てったところで、手練の狩人にかなうわけないだろう。あっけなく殺されるだけだよ」

 

簡単に見透かされていた。

たしかに俺は狩人としては未熟だし、まだまだ子どもだ。戦力にすらならない。

けれども、母を置いて出ていくことなんてできない。それならいっそ、ふたり一緒に殺されたほうがいい。

自分では意識していなかったが、たぶん、今にも泣き出しそうな顔をしていたのだろう。

母が俺の首に腕をまわしてきた。つよく抱きしめられて、身体の上に倒れこむ。

息が苦しかった。でも、こうしてもらうのもこれが最後のような気がした。

 

「いいかい。オマエは夜が明けたらウルダハへ向かうんだ。外壁に貧民たちの天幕があるから、そこに身を隠しなさい」

 

耳元で母が小さくささやく。

 

「私はまだ歩けるから、奴らの囮になる。さすがにいきなりは殺さないだろうから、オマエは魔物に襲われて死んだということにする」

「えっ…!」

「私はもう長くない。オマエさえ生きていればいい」

「俺…俺ひとりじゃイヤだよ。ひとりで生きていたくないよ…」

 

簡単に泣くなと言われていたけれど、どうしようもなく目から涙があふれた。

嗚咽をもらす俺の頭を、母の手が優しく撫でる。

 

「おまえは優しい子だ。辛い選択だってことはわかってるよ。でもね、どんなことをしても生きていかなくちゃいけない。私はただ土に還るだけ。何も哀しいことなんてないよ」

「うん」

 

俺も母の身体を抱きしめた。泣き疲れてそのまま眠ってしまったのだろうか。

ふたりだけの小さな天幕でよくそうしてくれたように、母の子守唄が耳元でずっと聞こえていた。

翌朝、まだ日が上りきらぬうちに、俺は流民たちの洞窟から抜けだした。

母は夕刻になったら洞窟を出るという。

 

うまく追手をまけたらウルダハへ向かうと言っていたが、それは単なる気休めだろう。

もう二度と会えないことはお互いわかりきっていた。

だから、後ろを振り向かないようにして、ただひたすら歩くことに決めた。

 

流民の洞窟の近くにブラックブラッシュというところがあって、ここからウルダハまで線路が続いている。

線路というのは地面に敷いてある二本の鉄の棒のことで、昔はこの棒の上を大きな乗り物が走ったらしい。

狩りにでかけたときに母に教わったことだが、いまいちピンとこなかった。

ともかく線路に沿って行けばウルダハに着く、自分にそう言い聞かせて、俺は線路の上を歩いた。

 

数時間ほど歩いたところで、空が急激に暗くなってきているのに気づいた。

ゴロゴロと遠雷の音が聞こえる。

砂混じりの風がびゅうびゅうと顔に強く吹き付け、雨の匂いがしてきた。

ほどなく、耳をつんざく雷の音とともに土砂降りの雨が降ってきた。

線路の先にトンネルが見えたので急いで駆け込んだが、すでに服も荷物もびっしょりと濡れてしまっていた。

短いトンネルだったが、途中で焚き火をしている男たちの集団がおり、とぼとぼと歩く俺を見つけると手招きしてきた。

男のひとりが自分の横に座るよう身振りで示したので、近づいていってそこに腰を下ろす。

例によって言葉がわからないが、身体が冷えて寒いから、一緒に温まらせてもらおう。

 

ふう、と一息ついたところで、いきなり服を脱がされた。驚いたが、代わりに乾いた外套を身体に巻き付けてくれた。

服はぎゅっと絞って、焚き火の横にある箱の上に広げる。なるほど。

 

パチパチと爆ぜる焚き火を見ていたらウトウトしてきてしまって、隣に座った男がしきりに俺の耳を触ったり、尻尾をいじっていることに気づかなかった。

周囲の男たちもなにかニヤニヤと笑いながらそれを見ている。

ズボンの中にするりと手が入ってきたところで、さすがの俺もただならぬ状況であることを察した。

 

男が身体を押さえつけてくるよりも早く、それをかいくぐってトンネルの外へ飛び出す。

乾いた服も荷物も置いてきてしまったが、それどころじゃない。

まだ雨も止んでいなかったが、得体の知れない恐怖を感じて必死に走った。

 

足元の泥水がばちゃばちゃと跳ね上がり、頭の先から泥をかぶった。

なんとかウルダハへ辿り着いたとしても、右も左もわからないうえ、言葉もわからない。

どこでだって生きていけるものだとおばあも母も言っていたものだが、とても信じる気になれなかった。

でも、いまの俺にはウルダハに向かうしかない…。

 

ようやく辿りついたウルダハの城壁には、ボロボロになった天幕がいくつもはりつき、焚き火のまわりには流民よりも貧しい身なりの者たちが暖をとるために固まっていた。

ずっと走り続けてきたことで心臓が早鐘のように打ち、足もふらついていた。

吸い寄せられるように焚き火のほうに歩いていったものの、あまりに身なりが酷かったせいで、舌打ちした貧民によって突き飛ばされた。数歩たたらを踏んでガラクタの山の中に倒れ込み、疲労のせいでそのまま動けなくなってしまった。

 

ちょうど頭上には天幕があったが、雨がななめに吹き付けてくるから意味が無い。

ずっと走っていたせいで最初は苦しいほどの熱さを感じていたが、それもすぐに氷のような冷たさに変わった。

だんだんと意識が遠のいてきて、顔に当たる雨粒がなんだか暖かく感じる。

眠ったら死んでしまうとわかっていたが、もはや立ち上がる気力さえ残っていなかった。

夢うつつに、誰かに抱き上げられて運ばれているのがわかった。

頬を何度か叩かれたがその感覚は鈍く、頭がふわふわとしてどうしても目が開けられない。

手足に力が入らず、とてつもなく眠かった。

誰かの手によって、泥をかぶった外套が剥ぎ取られ、ずぶ濡れになったズボンが脱がされる。

ヒューランの子ではないことがわかって誰かの声があがったが、俺はふたたびどこかへ運ばれた。

 

身体がかっかと熱くなってきたことで、ようやく意識がはっきりしてきた。

ぼんやりと目を開けると、俺はお湯をはった小さな木桶の中にいて、誰かがしきりに手足をこすっていた。

川に落ちて凍えたとき、おばあがこうして身体を温めてくれたんだっけ。

 

最初に目が合ったのは、腕まくりをして俺のつま先をこすっている老女だ。

どことなく、おばあに雰囲気が似ていた。

俺が目覚めたことに気づいて、老女がそばにいる老人に声をかけた。

ぼうっとしていると、お湯に浸した布で顔も頭もゴシゴシとこすられて、最後に乾いた布を頭からかぶらされた。

身体を拭かれてそのまま暖炉の前に連れていかれ、そこに置いてある椅子に座れと身振りで示される。

 

トンネルの中で襲われそうになったことを思い出し、俺は身体に巻き付けた布をぎゅっと掴んだ。

まさかここで襲われたりしないと思うけど、用心したほうがいいかもしれない…。

とはいえ、先ほどの屈強な男たちとくらべて、老人と老女はあまりにも善良そうに見えた。

ビクビクしていたのが伝わったのか、老女が暖かいスープを器に入れて戻ってきて、あまり俺に近寄らぬようにして差し出してきた。

それから、優しく微笑むと理解できない言葉で話しかけてくる。

 

一度奥に引っ込んだ老人が手に服を抱えて戻ってきた。

広げてみると、少し丈が長いが、着られそうな大きさだった。

受け取った服に袖を通していると、老人と老女が俺を見て、しきりにある単語を繰り返していた。

ムサシ、と。

 

「むさし?」

 

幸いにも発音は難しくなかった。人の名前? この服の持ち主だろうか。

老人がにこりと笑って頷いた。

 

一緒に暮らすようになったふたりからヒューランの言葉を学んだことで、俺はやがて知るようになる。

「ムサシ」というのがふたりの息子の名で、彼が戦地にでかけたままついに戻らなかったことを。

 

そして、その日を境にして、俺も「ムサシ」というヒューランの名を名乗るようになったのだった。

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