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第三話「砂漠の国」

いまでもときおり夢に見るのは、外套をはためかせ、暗い森の中を飛ぶように駆けてゆくほっそりとした後ろ姿。

記憶の中の母の顔はもう曖昧なのに、この後ろ姿は何故かはっきりと覚えている。

 

月明かりがあるとはいえ、夜の森を走り続けるのは容易なことではなく、俺は何度も足をとられて転んだ。

転ぶたびに母との距離が離れてしまうのだけど、そのたびに母が駆け戻ってきて、俺の腕を強くつかんで引き起こす。

しまいには腕を掴まれたまま、グイグイ引っ張られるようにして走った。

さすがに息があがってきて目の前がチカチカしてきたころ、ときおり後ろを振り返っていた母が、急に速度を落とした。

 

「尾行されてる」

 

母の見つめている方角、ずっと遠くのほうに、ぼうっとした明かりが見えた。

フードをはねあげて額の汗を拭うと、ふたたび目深にかぶり直す。

 

「木に登ってやり過ごそう。もうじき森が切れるし、夜の間は分が悪い」

 

獣道を外れて背の高い草の中に分け入る。

下から尻を押し上げられるようにして大木によじ登り、大ぶりな枝のところでやっと一息ついた。

母は単独で身軽によじ登ってきて、静かにするようにと身振りで示すと、姿勢を低くして息を潜めた。

 

やがて明かりはチラチラとした松明の炎となり、短弓を背負った女たちの集団がやってきた。

先頭にいるのはマーリだろう。全部で六人くらいだろうか。

大きく身振り手振りをしながら、なにかわめいたり、怒鳴っているようだ。

 

「殺した」「血の復讐」「痕跡」

 

そんな単語が切れ切れに聞こえる。

やっぱり、ダイラーたちは死体で見つかったんだ。

意地悪なやつだし大嫌いだったけど、殺されたと聞くと少し複雑な気持ちになる。

俺も長の天幕に呼ばれていたら、同じように殺されていたんだろうか…。

 

ぼうっと考え事をしていたら、彼女たちが二手にわかれ、別々の方角へ遠ざかっていくところだった。

 

「砦と村の方角に別れたか。それなら、私たちはウルダハへ向かおう」

「ウルダハ?」

「砂漠の国さ。今夜はこのままここで休んで、夜が明けたら移動しよう。連中は朝の光には弱いからね」

 

そうなのだ。

 

集落のみんなは夜の暗闇には強いが、朝の光には滅法弱い。一方で、俺と母は夜だとみんなより目が見えにくい。

簡単に追跡されてしまったのは、夜は彼らの領分だったせいもある。

 

母の目は針みたいに鋭くて、瞳孔が縦長だ。おばあや他の女たちの目は瞳孔が大きくて丸い。

自分で自分の顔を見ることはできないが、母いわく、俺も縦長の瞳孔であると教えてもらったことがある。

おばあからは、それがサンシーカーとムーンキーパーの違いだと教わった。

サンシーカーは太陽の民。褐色の肌で瞳孔は針のよう。多くは砂漠に住んでいる。

一方のムーンキーパーは月の民。肌は色白で瞳孔は丸い。深い森の中に住んでいる。

どちらも同じミコッテであり、狩りをして群れで暮らしていることに変わりはないが、おおむねそのような違いがあるとおばあから教わった。

 

このはっきりとした違いのせいで、自分は長やダイラーたちから疎まれていたのだろうか?

今となってはどうでもいいことだが、むしろそうされていたことで命がつながったのだとしたら、運命とは皮肉なものだ。

 

東の空が白みはじめたころ、俺たちはするすると木から降りて、再び歩きはじめた。

だんだんと木々が少なくなってゆき、かわりに赤茶けてゴツゴツした岩が多くなってくる。

地平線まで開けた空を見たのは生まれてはじめてだった。

途中、大きな石の橋を通った。

はじめて目にする巨大な建造物には度肝を抜かれたが、それ以上に驚いたのが橋の下の巨像だ。

今にも動き出しそうなそれは、人の手によるものだと母が教えてくれた。思わず橋から身を乗り出してぽかんと見とれていると、

 

「ほら、馬鹿みたいにあんぐり口を開けてるんじゃない。口に砂が入るよ!」

 

森を出てからはじめて、母が笑った。

浅黒い肌に金色の房が混じった黒髪。日に当たってスミレ色の瞳がキラリと輝いた。

太陽の下で見る母は集落でのイメージとだいぶ違っていてビックリしたのだったが、詳しく思い出そうとするとどうしても面影がぼやける。

このあたりから記憶がまばらになってきている。

 

大地はひび割れるほどカラカラに乾き、日陰もほとんどない。

水も残り少ない。どこかに立ち寄れば調達できそうだが、追手がかかっているだろうと警戒して避けた。

砂まじりの熱い風、遠くに立ち上る陽炎と、どこまでも高く広がる空。

外套を被っていても太陽はジリジリと照りつけて容赦なく体力を奪ってくる。

やがて少しずつ日は傾いてきたが、そのころには俺の体力も限界に近かった。

朦朧とした意識のまま、熱に浮かされるようにして、ふらふらと歩くのがやっとだった。

 

ゆるゆるとした坂を登りきったところで、砂塵の向こうにとてつもなく大きな影がうっすらと見えた。

城壁、丸くて巨大な屋根、いくつもの尖塔…。

俺は集落で生まれたから、大きい街はもちろん、都市など見たことがない。

だからそれが砂漠の国ウルダハだなどとは、すぐにはわからなかった。

母が立ち止まって振り返った。

 

「ウルダハが見えた。あと少しだよ」

目的地が見えたことで緊張が緩んでしまい、俺はよろけて膝をついた。

駄目だ、ここで倒れたらもう歩けなくなってしまう…。

母が背中の荷物を下ろして、水筒の底に残っていた残り少ない水を分けてくれた。

肩に掴まらせてもらい、なんとか立ち上がりながら、砂で汚れた顔をこすった。目にホコリが入ったのかチクチクと痛む。

もうちょっとだ。もうちょっとだけ頑張れば…。

 

日を遮るものがないはずなのに、あたりが不意に暗くなった。

いきなり力いっぱい突き飛ばされ、俺は無様に地面を転がった。

頭を打ったのか、目をあけても景色がぐるぐるとするばかりで、なんとか起き上がろうとしてまた崩れ落ちる。

かすんで見える視界の中で、姿勢を低くして短剣を構える母の姿が見えた。

対峙しているのは巨大な黒い影だ。大きな鎌をもたげている。見たこともない大きな昆虫だった。

 

加勢を、しなくちゃ。

たしか荷物の中に短弓が。

 

疲労困憊して死にかけの子どもが戦力になるはずもないのに、俺は必死だった。

だが、自分の意志に反してだんだんと視界が暗くなっていき、ついにはなにもわからなくなってしまった。

頬にひんやりとした感触、それからかすかに水の匂いを感じて、目が覚めた。

しびれていたような手足の感覚がゆっくりと戻ってくる。

視界には覆いかぶさるような、ごつごつとした黒い岩肌が広がっている。

ひんやりとした暗い洞窟の中、地面に寝かされているようだった。

 

上半身だけを起こしてぼんやりしていると、明かりが差し込む洞窟の入り口のほうから、浅黒い上半身を晒した男がのしのしと歩いてきた。

集落にもヒューランの商人がきたことがあるから、顔の横に小さな耳があり、尻尾がないのがヒューランというのは知っているが、それにしても大きかった。はじめはヒューランでもない別の種族なのかと思った。

片膝をつき、聞き慣れない言葉を話しながら、水の入った器をぐいと差し出してくる。

喉が猛烈に乾いていることを思い出した。ひったくるようにして器を受け取り、あわてて水を飲み込んものだから激しくむせてしまった。

男が大きな声で笑いながら立ち上がる。その向こうから、よく見知った姿が片足を少しかばいながら走ってきた。母だ。無事だった。

 

「やっと目が覚めたね。もう大丈夫だ。ここにいる流民たちに助けられた」

 

返事をしようとしたけれども、声が掠れてしまって出ない。

それは?と、ボロ布をぐるぐる巻きにしている右足に視線をうつすと、

 

「ちょっと油断した。かすり傷だよ」

 

母は頷いた。

さっき水をくれた男が母に声をかける。母の頭がちょうど男の胸の高さだった。

母が聞き慣れない言葉で返事をすると、男は手を振って離れていった。

ふたりのやりとりは俺にはまったく理解できなかった。

 

「狩りの獲物を提供するって約束で置いてもらったんだよ。オマエも弱っているし、しばらく厄介になろう」

「俺が…」

 

水を少し飲んだからか、やっと声が出せるようになった。

 

「ん?」

「俺が足手まといになったからだ。ごめんなさい」

 

母がにこりと笑って、俺のとなりに腰を下ろす。

 

「いいんだ。私はあの集落を出たかったから。こうなったのもアーゼマのお導きだろう」

「アーゼマ? メネフィナじゃなくて?」

「私たちはサンシーカーだから、守護神はアーゼマだよ」

「俺の血の半分はムーンキーパーじゃないの?」

 

なにがおかしいのか、母は弾かれたように笑い出した。

きょとんとしていると、肩に腕をまわしてきて、それでもまだくつくつと笑っている。

 

「そうか。オマエには話していなかったね。オマエは長の息子じゃない」

「えっ?」

 

思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。

ど、どういうこと?

 

「集落で俺を産んだんじゃないの?」

「長に拾われたとき、すでに私は身籠ってた。長にはバレただろうさ。おまえが生まれてすぐに殺されてしまうだろうと思ってた。けれども、なぜだか見逃してくれたんだ」

「本当の息子たちは殺してしまうのに…?」

 

将来の脅威を取り除くためだと、おばあは言っていた。

 

「よくわからない。もしかしたら、長は終わらせたかったんじゃないだろうか」

「終わらせたかった?」

「ああ。長となる血筋を残したくなかった。もしかしたら、はじめから長になどなりたくなかったのかも」

 

そのときの俺にはどうにも難しすぎる話だった。

長の考えはまったくわからなかった。でも、だったら逃げずに済んだのじゃないだろうか。

それを言うと、母は首を横に振った。

 

「オマエが長の息子だろうと、そうじゃなかろうと、もう関係ないよ。血の復讐を誓ったミコッテ族の女は、地の果てまでだって相手を追いかける。たぶん今も私たちを探しているはず」

「見つかったら殺されるの?」

「黙って殺されてやるつもりはないさ」

 

母と長のなれそめ、ふたりの間に何があったのかは聞いたことがない。

だいたい、自分が長の息子ではないなど、思ってもみなかった。

もしかしたら、おばあも気づいていたのかもしれない。それでも優しくしてくれた。

 

俺の本当の父親とやらのことも少し気になったが、結局聞かなかった。

ミコッテ族の男は群れを作らなければ一生放浪するらしい。だから、探したところで見つからないだろう。

どんなやつだったのかくらいそのうち聞いてみたいと思っていたけれども、それはついに叶わなかった。

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