CYDONIA
第十話「世界の終焉」
「ムサシ、おれ、不滅隊に入ってモードゥナに行くよ」
いきなり聞かされたママルカの宣言に、俺は面食らった。
そういえば、エオルゼア同盟軍が結成され、決戦のために志願兵を募っているという話は聞いた。
国を、家族を守るため、あるいは単に金を稼ぐために、ウルダハの若者が次々と志願してモードゥナに向かっているらしい。
「おれ、ウルダハの生まれだし。チャチャピのことも守りたい。だから決心したんだ」
なんてことだ。ママルカの口からいつもの軽口がまったく出てこない。
彼はどうやら本気らしかった。
「ムサシはウルダハに残ってドリスを守ってやれ。ついでといったら悪いけど、うちのチャチャピのことも気にかけてやってくんねぇかな」
「あ…ああ。もちろん」
ママルカが戦場に行ってしまう…急に胸が詰まって苦しくなった。
視線をあわせるために腰を落としたら、ママルカが俺の身体に腕をまわしてきた。俺も力を込めて抱きしめる。
ママルカのことだから、どんな窮地も機転で切り抜けるだろうが、なにが起きてもおかしくない戦場だ。
これがママルカとの最後の別れになったとしても、何ら不思議ではなかった。
「ママルカ、お願いだ」
「なんだ?」
「いざ危ないと思ったら、なんとしてでも生き延びてくれ。どんな卑怯な手を使ってもいい。帝国兵に呪いをかけてクソにしてもいいから」
「そうか、その手があったな。任せてくれ」
メネフィナよ、アーゼマよ。どうか、ママルカをお守りください。
俺は大切な親友まで失いたくはないです…。
「死ぬなよ」
死ぬなと言うのにひどく苦労した。
言葉にしてしまったら、それが現実味を帯びてしまうと思ったから。
「死ぬもんか」
ママルカはきっぱりとそう答えた。
何でもいい、いつもの冗談を飛ばして欲しかったけれども、彼自身、この戦いが厳しいものになることを予感していたのかもしれない。
短い別れを交わした翌日、ママルカはあっさりとモードゥナに向けて旅立っていった。
見送りは照れくさいからといって断られた。あいつらしいことだ。
それからさらに数日たったある日のこと。
家の戸を乱暴に叩く音がしたので出てみると、俺の腰の高さにつむじが見えた。
焦げ茶色の髪をおさげにしたララフェルだった。例によって人間の子どもにしか見えない。
片手に鶏の卵が入った籠、もう片手では大きなカボチャを抱えている。
「あなたがムサシね?」
なにか怒っている風な口調だった。
少し日に焼けたそばかすのある顔、緑色の気の強そうな瞳がぐっと俺を睨みつけてくる。
相手は俺のことを知っているようだった。
「もしかして…チャチャピ?」
「当たりよ。うちのボンクラから聞いてるでしょ」
そういって、トコトコと家の中に入ってくる。
テーブルの上に籠を置こうと背伸びしていたので、手を貸した。渡されたカボチャもテーブルに乗せる。
それにしても、なんでこんなに怒ってるんだろう? 俺、なにか嫌われてる…?
「あらあら」
人の気配を感じたのだろう、ドリスが羽織ものをして寝室から出てきた。
彼女はこのところ具合があまり良くなく、一日のほとんどを寝室に篭って過ごしているのだが、今日は顔色も良い。
「珍しいわね。ムサシにこんな可愛らしいお嬢さんが会いにくるなんて」
「えっ、可愛らしいですって!?」
ドリスのほうを振り向いたチャチャピの顔がぱっと輝いた。露骨に喜んでいる。
どうやらドリスのおかげでチャチャピの怒りが俺から逸れたようだ。
俺はチャチャピに椅子を勧め、ドリスも椅子に座らせると、お茶を淹れるためにそこを離れた。
チャチャピの話によると、ママルカが出発する際に、俺の家に食材を届けるようにと言い残したらしい。
どうも、俺がまともなものを食べていないということを察していたようだった。
ドリスの食事は気をつけていたが、そういえば自分のほうはいつも適当に済ませていたっけ。
ママルカから飯はしっかり食えって叱られたっけな…。
「ママルカさんにはよくお世話になったわ。こんな素敵な奥さんがいるなんて、もっとはやく紹介してもらうんだった」
「うふふ、私もはやくドリスさんにはお会いしたいって思ってたんです。でもママルカったら、いつもムサシがどうしたムサシがこうしたって。そんなにムサシが好きならムサシと結婚すればいいでしょ!って喧嘩になっちゃったこともあって」
チャチャピの態度が妙に刺々しかった理由がわかってしまったぞ。
そんなに俺の名前ばかり聞かされていたら嫉妬してもおかしくない。
しかし、ママルカのやつ、いったい奥さんに何を話してたんだ。まったくもう…。
「困った人ねえ。でも、うちの亡くなった夫も似たようなものだったわ。ムサシのことが可愛くてしかたなかったのね。私が言うのもなんだけど、この子ってなにかちょっと危なっかしくて放っておけないところがあるでしょう?」
「そういわれてみれば、なにか肝心なところが抜けてる感じですよね…」
ううっ…ふたりの視線が…痛いッ…!
なんで俺の話で楽しそうに盛り上がっちゃってるんです?
全部まるっと聞こえてしまっているわけだが、女性陣はそのようなことはお構いなしのようだった。
俺はふたり分のお茶を淹れると、テーブルに運んでいった。
「あら、あなたの分は?」
「あっ…」
忘れてた。
「ほらね。いつもこうなのよ」
「なるほど。ママルカが放っておけないわけね」
ふたりからクスクスと笑われてしまった。
自分の分のお茶を淹れて戻ってくると、 彼女らはなにか他愛もない話で盛り上がっていて、俺はさっぱり話に入ることができなかった。
それでもこんなに楽しそうに笑っているドリスを見るのは久しぶりだ。家の中がぱっと明るくなったような気がした。
「こんなに大きなカボチャまで頂いちゃって。嬉しいわ」
「チャチャピ、本当にありがとう。ドリスもおしゃべりできて楽しいみたいだし、良ければいつでも遊びにきてくれないかな」
「うちの実家は農家なんです。卵と野菜ならおすそ分けできるから、また来ますね」
チャチャピはドリスににっこりと微笑んだ。さきほどの不機嫌もドリスのおかげですっかり直ったようだ。良かった。
しかし、くるりと俺のほうを向いた彼女からは、もう笑顔が消えていた。
「そういえば、私、野うさぎが食べたいのよね?」
うっ。唐突にそれか。獲物が多くとれたときにママルカにも渡していたから、当然彼女も知っているわけだ。
しかしモグラじゃなくて、野うさぎを要求してくるとは、こやつ…!
「私が卵と野菜を提供。あなたが代わりに肉を調達。悪くない取引でしょ?」
「はあ…わかったよ。なるべく太ったやつを捕まえてくる」
「こんなときだからこそしっかり食べなくちゃね。期待してるからね!」
有無を言わせぬ口調だった。なんだこの駆け引きの鮮やかさは…。
さすがママルカの奥さんだ。抜け目がない。これは油断できない相手だ。
そういうわけで、この日からチャチャピがときおり家を訪ねてくるようになった。
チャチャピもママルカが戦場に行ってしまって不安だったろうが、ドリスとおしゃべりすることで気が紛れるようだった。
俺が野うさぎを狩ってくる。チャチャピは卵と野菜を持ってくる。
この時勢にしては珍しく豪勢な食事ができるようになった。
暗い話には事欠かない毎日だったが、三人で食卓を囲むのは楽しかった。
それでも、空を見上げるとそこには真っ赤なダラガブがあって、もはやいつ落下してもおかしくない大きさになっていた。
いよいよ最終決戦が迫っていると、ウルダハ国内に緊張が高まっていた。
三国の指導者たちも戦地へ向かったらしい。
そんなとき、戦地のママルカから便りが届いた。
帝国軍がカルテノー平原に広く布陣していて、エオルゼア同盟軍の兵士たちもそれを迎え撃つ形で陣形を組んでいるそうだ。
ママルカは伝令兵となって、それぞれの陣地をせわしなく行き来しているらしい。
どの隊も物資不足が深刻だが、とりあえずクソみたいな飯にはありつけていると書いてあった。
いつものような軽口にホッとしたが、手紙はニ通あった。片方は遺書だった。
自分になにかあったらチャチャピに渡して欲しいと締めくくられていた。
それから、荷運び場はついに営業を停止した。
雇い人も依頼人も次々と戦場に行ってしまったからだ。
親方は戦争が終わったらまた再開すると言っていたが、いつ戦争が終わるのかは誰にもわからなかった。
収入が途絶えた。それどころか、ドリスの薬が入荷するアテも無くなってしまった。
つまり金をいくら積んでも手に入れることができなくなってしまったということだ。
ほうぼうの病院なども当たってみたが、かき集められたのは微々たる量だった。
在庫はまだ少し残っているが、それもいずれ尽きてしまう…。
万策尽きて途方に暮れていたら、見知らぬ男に声をかけられた。
隻眼のその男はベルクと名乗り、なんでも取り扱う仲介業者だと自己紹介した。
ドリスの薬を調達できるかと尋ねたところ、可能だと答えた。
彼が代わりに要求してきたのは、金ではなく、俺自身だった。
身体を売ったのはあれ一度きりだったが、こうなったら何度売っても同じだ。
これでドリスの薬が手に入るのだったら、なんでもやってやろうという気になっていた。
ベルクに連れられて行ったのは、政庁層にほど近いところにある高級娼館だった。
外観からは娼館だとわからない。ただ、入り口に変わった形のランプが灯っていて、用心棒らしい屈強な男が立っていた。
貴族や裕福な商人などが出入りしていて、運営しているのも国の有力者だという話だった。
ベルクの顧客には特殊な性癖のある「高貴なお方」が何人かいるらしく、彼らの要求を満たすのも大事な商売なのだとか。
つまり、高貴なお方の中に俺みたいな変わり種を所望するやつがいるってことか。
ふと、以前一度だけ身体を売った相手のことを思い出した。もしかして彼が? いや、別にどうでもいいか。
建物の中は全体的に赤っぽく、香を焚きしめた匂いがした。途中で薄物をまとった女と何度かすれ違ったが、彼女らは俺を気にする様子もなかった。
ひどく場違いなところに来てしまったようで気後れしたが、ベルクは気にせずどんどん奥へ入っていく。
通された部屋は階段を登り切ったところにあり、重そうな扉の向こうには天蓋つきの大きなベッドがあった。
はめごろしの窓がひとつだけあり、そこからはウルダハの下層と、天空に赤く燃えるダラガブが見えた。
「さて、今日からここがお前の仕事場だ」
ベルクはそう言うと、俺に鍵つきの首輪を差し出した。
「これはここの商品であるという印だ。拘束するためのものじゃない。お前はここで俺が連れてくる客の相手をする。俺は対価としてお前に約束のものを渡す。客をさばききったらその日の仕事は終わり。首輪も外してやるし、家へも帰れる。どうだ、悪い取引じゃないだろう?」
ドリスの命がかかっている以上、選択の余地はなかった。
黙って頷くと、俺は首輪を受け取った。
最初の数日のうちは、せいぜいニ、三人の相手をするだけで良かった。
ベルクは律儀にもきっちりと薬を渡してきたし、俺の目的はそれだったから、特に不満はなかった。
それで、薬が少なくなると、自ら娼館へ出向き、自分を売るようになった。
どんな客が来ても別け隔てなく相手をした。彼らの言うなりになった。
ここにやってくるのは上流階級や金持ちの連中だけらしく、知り合いにばったり遭遇する心配はまずなかったのだが、それでも客からモノのように扱われると、なんだか心まですり減っていくような気がした。
やっと解放されて家に戻ると、いつも気絶しそうなほどクタクタに疲れていて、ドリスにおやすみの挨拶もせずに暖炉の前で丸まって眠った。
チャチャピを交えて食事をする機会もめっきりと減ってしまった。
娼館での仕事は夕刻から深夜というのがほとんどで、そうすると彼女と会うことができない。
それでも約束を反故にするわけにはいかないから、暇を見つけては野うさぎを狩りに行き、ママルカの家の戸口まで届けに行った。
かわりにうちの前に卵と野菜が置いてあることもあった。ドリスに聞いてみたところ、ときおりやってきては様子を見てくれているらしい。助かる。
そういう生活を続けて数日たった頃から、さらに多くの客をとらされるようになった。
ベルクいわく、俺のことが客の間で評判になっていて、指名が増えているんだそうだ。
彼にとって、俺は金の卵を産むガチョウのようなものだったのだろう。
俺は今までよりも長時間、娼館に拘束されるようになっていた。
その日は夜が明けてからからようやく解放された。
襲い来る眠気と戦いながら、やっとのことで家にたどり着くと、戸口の前にチャチャピが座り込んでいた。
「やっと会えた。あなた、私に隠し事をしてるわね? バレてないとでも思った?」
「チャチャピ、ごめん…」
もう限界だ。もう眠らせて欲しい。
なにか話しかけてくるチャチャピを押しのけて家に入ると、俺は暖炉の前に敷いた毛布に倒れこんだ。
すうっと意識が遠のいて、あっという間に眠りに落ちてしまった。
数時間は泥のように眠っていたのかもしれない。
目が覚めると身体に毛布がかけてあって、それからなにかいい匂いがした。
「私を放っておいてぐうすか眠りこけるなんて、あなたもたいがいよね」
まだチャチャピがいた。
口調は怒っているが、湯気のたつ野うさぎのシチューをわざわざ運んできてくれた。
「ドリスはもう食べて、さっき眠ったところ」
「あ…ありがとう」
とはいったものの、シチューに手をつける気になれなかった。
ひどく迷惑をかけたことが申し訳なくて黙っていたら、彼女のほうから声をかけてきた。
「ドリスの薬のためなんでしょう?」
「うん…」
視線を落として頷く。
彼女に隠し事をしていたことが、ひどく恥ずかしかった。
「どんな契約をしているのだか知らないけど、その分じゃ、相当こき使われてるみたいね…」
どういう情報網を持っているのか、彼女は俺の仕事のことをすでに知っているようだった。
それなら話は早い。細かい経緯は端折り、娼館で働くことと引き換えにドリスの薬を手に入れていることを説明した。
それから、稼ぎとして受け取ったばかりの薬を差し出して、彼女にこう頼んだ。
「俺…そのうち監禁されるかもしれない。そうしたら、チャチャピ、薬を受け取ってドリスに届けてくれないか。君しか頼れないんだ、頼む」
「私がそう簡単にハイわかりました、なんて言うと思う?」
彼女の言うとおりだ。
だけど、でも、他に薬を手に入れる方法が思い当たらない。
それに薬を切らしたらドリスが死んでしまう。そんなのは絶対に嫌だ…。
「ほら、シチュー冷めちゃうでしょ。まずはそれを食べて」
チャチャピに言われて、ようやく自分が空腹であることに気付いた。
このところ痩せた野うさぎしか手に入らないのだが、それでも肉の入った温かいシチューは空腹を満たしてくれた。
つい床にあぐらをかいたまま食事をしてしまったが、チャチャピがお茶を淹れて戻ってきたので、俺も立ち上がって椅子に座った。寝床がわりの毛布は背もたれにかけた。
頬杖をついて俺の様子を見ていたチャチャピが、ふうとため息をついた。
「あなたが無理して薬を調達しているってこと、ドリスも薄々気付いているみたい。自分のせいで辛い目にあわせているのが申し訳ないって」
「そんなこと…これは俺が自分で決めてやっていることだから、別に後悔してないよ」
「それでも、ドリスのためにあなたが監禁されてしまったら、それこそ本末転倒よ。じゃない?」
返答に困った。
監禁されるかもと咄嗟に口走ってしまったのは、最近になって明らかに拘束時間が長くなっているからだ。遠からずそうなるという予感がしていた。
ウルダハに危機が迫る一方で、現実から目をそらして享楽にふける貴族や金持ちが増えているせいだ。そしてそれを利用して金を稼ごうと考える輩も。
「…あなたには言い難いんだけど、ドリスの命はそう長くないと思う」
チャチャピがゆっくりとつぶやいた言葉を聞いて、心臓が跳ね上がった。鼓動が早くなって息苦しくなる。
彼女の顔を見ると、ひどくつらそうな表情をしていた。
「できるだけ彼女のそばにいてあげたほうがいい。彼女もそれを望んでる」
「それでも、薬を飲んでいれば、少しでも先送りできるじゃないか」
「それはそう。でも、そのためにあなた自身を犠牲にして欲しくないって、ドリスは思ってるの」
俺もなんとなく察していた。けれども、認めたくなくてずっと目をそらしていた。
薬を手に入れようと躍起になっているのは、ドリスの死から目をそらしたいからだ。彼女の言うことはいちいち図星だった。
深刻そうな顔で黙ってしまった俺を見て、チャチャピが肩をすくめて少し笑った。
「ごめんね。長居しちゃった。もしあなたが帰れないのだったら、私が薬を受け取りに行くから。それだけは安心して」
「ありがとう、チャチャピ」
どうしても結論が出せなかった。
辛い選択だと彼女にもわかっているはずだ。だから、彼女も折れてくれた。
チャチャピが帰ったあと、そっとドリスの寝室に行った。
彼女は安らかに眠っていて、俺が部屋に入ったことには気付いていないようだった。
思わず、眠っている彼女の手を両手で握っていた。温かい。
はじめて助けてもらったときから、ずいぶん痩せたような気がする。
それでも彼女は相変わらず少女のようで、彼女に優しく微笑んでもらうだけでも俺は幸せだった。
レオンとふたり、ドリスを守ろうと決めたことを思い出す。
ドリスに会えなくなるのはもちろん辛かったが、それでも彼女が死んでしまうよりはマシだと思った。
自分で予告したとおり、娼館に監禁されるようになるまでにそう時間はかからなかった。
拘束するためのものではないと言われた首輪には鎖をつけられ、その先端はベッドの柱に繋がれるようになった。
ベッド周辺を歩きまわる余地はあったので、客がいない間にときおり窓の外を眺めた。
ダラガブがひときわ赤く、大きくなっている気がする。
夜は空一面が赤く染まり、空の赤さが地上の建物にも映って、この世のものらしからぬ光景が広がっていた。
選ばれた冒険者たちがダラガブの落下を阻止するために各地で活動をしているとも聞いたが、俺にはまったく想像もつかない話だった。
チャチャピは約束通り、何度か薬を引き取りにきてくれたようだ。
直接彼女に会うことはできなかったが、ベルクに対して俺の拘束時間と薬の交換レートがどうとか、かなり厳しい口調で詰め寄ったらしい。
ベルクは独自ルートで薬を仕入れているらしかったが、それでも入手が厳しくなっていることを俺にこぼしてきた。知るものか。
客はひっきりなしに続いたが、さすがに休憩時間もなく働き続けることは体力的に無理だったので、ついに客を無視して眠りこけてやった。
ベルクがかんかんに怒ったが、チャチャピが薬を引き取りにきた直後のことだったから、俺も少し気が大きくなっていた。
ベルクは仲介業者であって俺の雇い主ではない。俺がベルクの商品なら、商品の体調を管理するのは仲介業者の仕事じゃないのか?
俺の反論で一度は引き下がったベルクだったが、しばらくするとすらりとした背格好の人物を伴って戻ってきた。
彼の耳になにか囁くと、ベルクは部屋を出て行った。よくよく見ると、その人物は俺をはじめに買った、あの「高貴なお方」だった。
「おまえ、客を無視して眠っていたそうだが、本当か」
客の誰よりも立派な服装、尊大な口調から察するところによると、彼こそがここのオーナーのようだった。
なるほど、それで俺がベルクに「調達」されたわけか…。
「ひっきりなしじゃこっちの身がもたない。少しは休憩させてくれ」
「なるほど、それでは休憩する時間をやろう」
どういう意味だ…?
歩み寄ってきた彼をよく見ると、腰には鞭を下げ、手には束ねた縄を持っていた。
あっと思ったときには彼に両手首を掴まれ、そのままベッドの柱に縛り付けられてしまった。
ブルにされた暴行を思い出して膝に震えがきたが、でかい口を叩いた手前、怯えるわけにもいかない。
背中にいきなり鞭の一閃を食らって、俺は悲鳴をあげた。
仕事中は面倒くさがって上着を脱ぎっぱなしなので、たいてい上半身は裸のままだ。だから、鞭ももろに食らうことになる。
覚悟はしていたものの、初めて食らう鞭の痛みは強烈だった。
ぎゅっと目を閉じていたが、鞭が飛んでくるたびに視界がぱっと赤く染まる。
精一杯身体を縮めたつもりだったが、容赦なく背中を、脇腹を、鞭で打たれた。
皮膚が破れ、血が流れるぬるりとした感触がした。
やがて、皮膚が裂けたところにも容赦なく鞭が振るわれるようになり、たまらず絶叫した。
叫ばないと痛みで気を失ってしまいそうだった。
痛みで薄れる意識の中、真っ赤な空、どこまでも荒涼とした岩だらけの大地が見えた。
点々とした汚れに見えたのは、黒い鎧の帝国軍か。
それは疫病のようにじわじわと広がって、大地を覆い尽くしていった。
帝国軍と対峙していたエオルゼア同盟軍の兵士たちが、それを迎え撃つようにしてぶつかり合っていく。
なぜこんな光景が見えるのか、俺にもさっぱりわからなかった。
暗い空を見上げると、そこには真っ赤に燃えるダラガブがあった。表面に幾何学的な模様が見える。
月だとばかり聞かされていたが、あれはどう見ても人工的なものだ。
突然、模様の隙間に強烈な閃光が走り、ダラガブから破片が落下した。
ダラガブが大きく膨らみ、破裂して、巨大な影が翼を広げた。現れたのは漆黒のドラゴンだった。
ドラゴンが咆哮をあげると、多数の光弾が大地を襲った。敵味方関係なく、多くの兵士たちが消し飛ぶのが見えた。
すると、今度はドラゴンを押し包むような光の爆発が起きて…。
[newpage]
すさまじい轟音が聞こえた。
建物全体が地響きでグラグラ揺れる。
「なんだ!?」
オーナーが驚いて窓のほうを振り向き、俺は夢うつつから現実に引き戻された。
一瞬どちらが現実かわからなかったが、身体の痛みを感じるこちらが現実のようだ。
それにしても、この轟音と地響きはいったいなんだろう。
窓の外が真っ赤に染まり、なにかが炎をあげながら幾筋も落ちていくのが見えた。
建物の内外から悲鳴があがり、人々が逃げ惑う足音、モノが割れる音が聞こえた。
オーナーはあわてて部屋を飛び出して行き、俺だけが取り残された。
なんとかして縄を解こうともがいてみたが、手首で固く結ばれていてびくともしない。
一刻もはやくドリスの元に駆けつけたいのに、なんだってこんなことになってるんだ。
必死になって助けを求める声をあげたら、ベルクが駆けつけた。まだ逃げずにいたらしい。
俺の有様を見て小さく舌打ちをしたが、てきぱきと縄を解いてくれた。
乱れた服を整え、脱ぎ捨ててあった上着を羽織ろうとして、背中の痛みに呻いた。
自分ではどうなっているのか見えないが、きっと酷いことになっているんだろう。床にもベッドにも、ズボンにも血のシミが点々とついている。
「待て」
ベッドの下からベルクが箱を引っ張りだした。中に軟膏や包帯が入っている。
まったく予想外だったが、彼が背中の傷の手当てをしてくれた。
軟膏を塗って包帯を巻くだけの応急処置だったが、とりあえず上着は着られるようになった。
「深く切れたところはあとで縫ったほうがいいな。化膿止めの薬を飲んでおけ」
「どうして…」
「お前は俺の商品だ。勝手に傷つけるのは許さん。俺はオーナーに休憩をやってくれと言ったんだ。まさか鞭打ちにするとは思わなかった」
そう言って、首輪の鍵も外してくれた。この騒ぎでは当分営業も中止だろう。
地響きと轟音は相変わらず続いていて、窓の外が真っ赤に燃え上がっている。この近くで火災が起きているのかもしれない。まるで、この世の終わりみたいな騒ぎだった。
窓の外をのぞいたら、幸いにも家の方角はまだ暗く、火の手があがっている様子はなかった。急いで戻ってドリスを避難させないと…!
苦痛を押し殺して部屋を飛び出そうとする俺に、ベルクが動揺を隠し切れない口調で言った。
「カルテノーにダラガブが落ちたらしい」と。