CYDONIA
第ニ話「逃避行のはじまり」
「ジヌ、おまえは目障りなんだよ。どこかに行ってしまえ」
涸れ井戸に落ちた俺を見下ろしながら、ダイラーが冷笑を浴びせてきた。
ダイラーの隣には、クスクスと忍び笑いするレンとアーリの顔。
ふたりから遊びに誘われたから、なんの疑いもなくついてきたらこの仕打ちだ。
何故こんなに嫌われるのかわからない。
だいたい歳だってずっと離れているし、真っ向から喧嘩したところで勝負にもならないことはわかりきっているはずだ。
それなのに、ダイラーは事あるごとに絡んできたし、今日などは取り巻きのレンとアーリと共謀して、俺を涸れ井戸につき落とした。
下に落ち葉が積もっていたせいでたいした怪我はしなかったが、レンとアーリとは一緒に遊ぶこともあったので、彼らに騙されたことはさすがにショックだった。
上からはやしたてる声がして、続けて小石が降ってきた。
いくつかは頭にも当たって、もちろんそれは痛かったが、膝を抱えたままじっとしていた。
痛がって泣きもしない、声もあげずにただひたすらじっとしている俺に飽きたのか、そのうち3人はつまらなそうにどこかへ行ってしまった。
彼らが去ってから自力で井戸から這い上がったが、あたりはもうとっぷりと暗くなっていて、さすがの母も心配して探しにくるほどだった。
「いずれ脅威になると思ってるからアンタを目の敵にするんだよ」
「きょうい?」
「そう。大人になったらかなわないと思ってる」
「仲良くしたいとか思わないのかな」
「それもひとつの処世術だね。どうするかはアンタが決めればいい」
よくわからない。
でも俺を嫌いだと思っているやつと無理に仲良くする必要はないような気がした。
人を騙すような卑怯な連中に媚びへつらったところで、自分が惨めになるだけだ。
頭から血を流し、手足を傷だらけにして集落に戻ってきた俺を見て、おばあもなにかを察したようだが、深く詮索せずに手当をしてくれた。
母に手をひかれて天幕に戻るとき、急に胸が苦しくなって、目から熱いものがあふれた。
声を殺して泣いていることに気づいたようだったが、母はずっと黙っていてくれた。
ミコッテ族は大自然の中で生き、風のように狩りをし、死んだら土に還るのが定め。生に固執してはいけない。生は仮初のものでしかない。
おばあがよく語っていたことだ。
ただ、母は砂漠の出身だし、ヒューランの街で暮らしていたこともあるせいか、ミコッテ族らしくない価値観を持っていた。
「おまえが大きくなったら私はここを出て行く」
「世界は広い。小さな集落に染まるべきじゃない」
眠りにつくまえのほんのわずかな時間、ふたりだけの小さな天幕で、母はたびたびそのようなことを言っていた。
どう答えればいいのかわからなかったし、そもそも外の世界とやらがどんなものか知らなかったので、頑なな母の横顔を見ながら、俺は黙って眠りにつくだけだった。
とある事件をきっかけにして集落を出てから、母の言葉の意味をイヤというほど理解することになろうとは、そのときの俺には想像もできなかった。
長と狩りにでたはずの、ダイラーとレンとアーリが集落に戻らなかった。
いつの間にか長だけが戻ってきていたらしい。
息子たちがいないことに気づいて半狂乱になったのは彼らの母親たちだ。
いつものように他の女たちとともに大天幕に集まっていたら、息子たちを返せとわめきながら駆け込んできた。
俺を次の長にするため、母が少年たちをどこかに隠したんだとか、やつらが涸れ井戸に俺をつき落とした腹いせに同じことをやったんだとか、言いがかりもいいところだった。
「馬鹿言うんじゃない。あたしはここから出て行きたいんだ。長なんて知るか」
「マーリ、おまえ、ダイラーがこの子を涸れ井戸につき落としたなんて、なんで知ってるんだい?」
腕組みをして静かに話を聞いていたおばあが、ダイラーの母親に問う。
「ダイラーから聞いたんだよ! だからノイエが仕返ししたんだろう?」
「あんたのボンクラ息子は仕返しのために親の助力をアテにするのか」
普段黙っているだけの母に痛いところを突かれたのか、マーリは顔を真っ赤にして口ごもると、他のふたりの母親を伴って大股に大天幕を出て行った。
3人の捜索に加わろうと、幾人かの女たちが仕事を中断して、あわててそのあとを追う。
残されたのは、俺と母、おばあ、それと俺たちによくしてくれる数人の女たちだけになった。
おばあはしばらく黙りこんでいた。声をかけてはいけないような気がした。
眉間のシワが深い。いつになく沈痛な面持ちをしている。
やがて目を閉じて深い溜息をついたおばあは、小さくこうつぶやいた。
「なんてこと。私は息子の育て方を間違えたのかもしれない…」
うっかり聞き漏らしそうな、あまりにも小さな声だった。
「息子…?」
「長だよ。ダイラーもずいぶん大きくなったから、次の長として認めたものだと思っていたんだ」
意味がわからない。
ダイラーたちが消えたことと、いったいなんの関係があるんだろう。
「カミーラ、なにを知っている。このことと長に関係があるのか?」
母も同じことを疑問に思ったようだった。真剣な顔をしておばあに詰め寄る。
ただならぬ雰囲気に、残った女たちもまわりに集まってくる。
やがておばあは重い口を開くと、次のようなことを語り始めた。
ダイラーが生まれる前、この集落には他にも男子がいたこと。
少年は長の教育を受けていたが、ある日、長と狩りにでかけたまま戻らなかったこと。
森にでかけた女たちが、何者かに殺され、木のうろに隠された少年の死体を見つけたこと。
「もちろん私たちは長を問い詰めた。けれども長はなにひとつ言わなかった。当然、疑問に思ったさ。自分の跡継ぎが何者かに殺されたとしたら、平気な顔をしていられるわけがないからね」
大切な息子を殺された母親は気が狂い、集落の近くの泉に身投げしてしまった。
度重なる悲劇に、女たちは嘆き哀しんだ。
それでもやはり、長は黙して語ろうとはしなかった。
そして女たちはなんとなく察したのだ。
次の長となるはずだった少年を襲った悲劇を。
「我らの大いなるメネフィナは冷酷な顔もお持ちだ。次の長としてふさわしくない、そう判断したからこそ、手をくだしたのだと思っていた」
おばあは両の目を閉じたまま続けた。
「けれどもね。そうじゃない。あれは単に、将来の脅威を取り除こうとしているだけだ。それも卑怯な手を使って」
母と周囲の女たちの顔色がさっと青くなる。
俺だけがまだ話が飲み込めずにいた。
長が? 脅威を取り除くために卑怯な手を使った?
「アンタたちはすぐにこの集落から出たほうがいい。一刻も早く、できるだけ遠くへ逃げるんだ」
「おばあ、どういうこと…?」
「おそらくだけど、ダイラーたちはもう生きてはいないだろう。それを知った母親たちがなにをしでかすか、私にはなんとなく想像がつくんだよ」
女たちの行動は素早かった。
手分けして荷造りをし、森に紛れる深緑色の外套を用意して、俺と母にそれを手渡してくれた。
やがて、おばあは俺に覆いかぶさるようにして強く抱きしめると、耳元でこういった。
「自分が正しいと思うことをして生きなさい。誰がなんと言おうと、おまえの生き方はおまえ自身が決めることだ」
おばあになにか言いたかったけれども、どうしても言葉が出てこなかった。
別れを惜しむ間もなく、俺と母は女たちに急かされ、大天幕の裏から抜け出した。
息を潜めて周囲に誰もいないことを確認する。
夜明けまでに森を抜けること、少年たちを捜索している集団に出会ったら逆方向に逃げるよう指示された。
「ノイエ、気をつけて。追っ手がかかるかもしれないけれど、できるだけ時間は稼ぐから」
「あんたたちに大いなるメネフィナのお導きを」
こうして、俺と母の逃避行がはじまったのだった。