CYDONIA
第七話「絶望と希望」
ドリスの薬は、ここのところますます値上がりしていた。
戦争のせいで物資が入りにくくなっているのが原因だそうだが、それにしても今までの三倍の値段をふっかけられたときには、本気で途方にくれてしまった。
たまたまママルカが通りかかって値引き交渉してくれたから良かったようなものの、そうでなければ薬を手に入れることができずに困り果てていたことだろう。
「値引き交渉にも限度があるんだよなぁ。そもそも仕入れ値があがってるから、売るほうもどうしようもないんだ」
「そうなのか…」
それにしても、いまいましいのはガレマール帝国だ。
アラミゴ陥落後も交易路がいくつか封鎖されたままだし、ウルダハも相変わらず流民問題を抱えている。
モードゥナのほうでは緊張状態が続いていて、帝国が本格的に侵攻してくるまえにエオルゼア三国で軍事同盟を結ぶべしといった声が高まりつつあった。
荷運び場に集まる荷物の量も目に見えて減っていた。
戦地へ運んでいく物資だけは増えているが、その物資を作ろうにも原料が輸入できない。そもそも、荷物全体の流通量が少なくなっている。
日雇いできる人数にも限界があり、朝から雇う雇わないで喧嘩になることもしょっちゅうだった。
誰もが仕事は欲しいから、みんなで融通するしかない。しかし、仕事を融通しあうとひとりあたりの給金も減り、給金が減るとドリスの薬も満足に買えない。
もちろんドリスもそれは承知しているから、こっそりと薬の量を減らすなどのやりくりを試したようだ。
結果、夜中にひどい発作を起こしてしまい、生死の境をさまよった。
朝方になってなんとか落ち着いたものの、彼女が死んでしまったらどうしようと、俺は生きた心地もしなかった。
珍しく俺のほうがドリスを叱りつけ、彼女はしおらしくしゅんとしていた。こうなったらどちらが保護者なのかわからない。
次に発作を起こしたら命に関わると思い、親方に給金を前借りしてまで余分に薬を手に入れたんだった。
自分がどうなろうと構わない。
けれども、母を助けられなかったように、ドリスまで助けられなかったとしたら最悪だ。
そんなことになったら、一生自分を許せそうにない。
「まあ、そんな深刻そうな顔すんなって。こんなときこそ面白いことを考えようぜ」
「そうだな。ママルカの顔とか面白いもんな」
「馬鹿いえ、ウルダハの貴公子と呼ばれたこのママルカ様の顔が面白いわけがあるか」
ママルカと軽口を叩きながら荷運び場にやってくると、親方がこちらに気づいて手を振った。
「おい、ママルカ。いま家から知らせがあったぞ。奥さんが倒れたらしい」
「えっ!?」
「えええっ!?」
ママルカの「えっ?」は奥さんが倒れたという知らせの驚き。
俺の「えええっ!?」はママルカが既婚者だったということの驚きだ。
「チャチャピが倒れた? あいつが? 腐った飯食っても下痢すらしない鋼鉄の女が?」
「ちょ、ちょっと待って? ママルカ、君、本当はいくつなんだ」
「まいったなー。おれ愛らしいから歳わかんないよな。まぁ、三十七だけど」
「三十七ぁ!?」
まいった。てっきり同い年くらいだとばかり思っていた…。
俺より倍以上も上だったのか。この、どうしようもなく口が悪くて、ウンコの話が大好きなイタズラ者が。
とはいえ、ママルカは博識だし、考えようによっては歳相応の落ち着きもある(ような気がしないでもない)。
これからはママルカ様と呼べ!と言われたら素直に従うしかないだろうか。
「今日はそれほど荷も多くないから、ムサシひとりで大丈夫だろう。ほら、すぐ家に帰ってやんな」
「ああ、すまない、親方。ムサシ、今日は悪いな。しかし、あいつがねぇ…?」
まだ怪訝そうな顔をして首を傾げているので、
「奥さん心配でしょう? 早く帰ってあげたほうがいい…んじゃないですか?」
急に言葉をあらためたのが面白かったのか、ママルカが笑いながら俺に肘鉄を食らわせてきた。
「なんだよ、クソ踏んで転んだような顔すんなよ! まあ、おれ様の偉大さがわかってよかったよな。今度チャチャピを紹介すっから。じゃあな!」
前言撤回だ。
ママルカはママルカだった。歳なんて関係ない。
転がるようにして走り去るママルカを見送って、俺はいつもどおりの仕事についた。
仕事の割当はまだしも、苦情処理も全部俺ひとりでやるのか。あーあ…。
荷物の量が少ないとはいえ、ひとりでふたり分の仕事をまわすのは目がまわるような忙しさだった。
いつもならとっくに帳簿を締めているころなのに、いつまでも計算が合わない。
それというのも、朝からどうでもいい苦情を言いに来た客がいて、しかもそいつがしつこく食い下がってきて、無駄に時間をとられたせいだ。
荷運びに靴の流行がどうして関係あるんだ。くるぶしが怪我をしそうだとか、それこそ本当に関係ない。だいたい何でそれを俺に言うんだ。本気で意味がわからない。
ただ今日はちょっと金払いのいい客もいて、機嫌のいい親方がみなに酒を振る舞ってくれた。
だから給金が少なくても喧嘩を売ってくるやつはいなかったし、いつものようにブルに絡まれなくて済んだ。
しかし疲れた。はやく仕事を終わらせて家に帰ろう…。
「おい、ムサシ」
暖をとるための火のまわりに座って酒を飲んでいる男たちから声がかかった。
俺のことを名前で呼ぶのはママルカか親方だけなのに、いったい誰だろう…?
驚くことなかれ、ブルだった。
酒がなみなみとつがれた真鍮のカップを手に、なんと俺のことを名前で呼んでいるじゃないか。
ううっ、しかも笑顔! 強面が満面の笑顔だもんだから、むしろおっかない。
「な…なに?」
「オマエもこっち来いよ。一緒に飲もうぜ」
なんてこった。ますます不気味だ。
あいつが俺のことを名前で呼び、愛想よく笑い、そのうえ手招きしている…!
ふと夜空を見上げると、血のように赤いダラガブが見えた。あの凶星が赤く見えるときは精神に影響を受けやすく、狂人が増えるなんていう噂がある。それで変な酔い方でもしたんだろうか?
「いや、まだ終わらないから…」
「そんなもん後でやればいいだろ。まずは一杯付き合えよ」
仕事なのに後でやれときたもんだ。
ブルの愛想笑いが薄気味悪くて、声が震えてしまったような気がする。どうしよう、喧嘩を売ってくるブルのほうがあしらうのが楽なんだけど。
「おおい、お前の分もちゃんとあるんだからな!」
ああー! しつこい!
ブルがあまりにもしつこく呼ぶので計算に集中できない。俺は観念して椅子から立ち上がった。
集まっている面子はブルといつもの取り巻きふたりだ。火を囲んで楽しげに酒を飲んでいる。
まだ本格的な冬ではないとはいえ、夜になると冷え込んでくるので、夕方には火を焚くようになっていた。
いつもは火にあたるとホッとするのだが、今日はなんというか、一刻もはやくここから離れたい。
ふと、リジーに言われた言葉を思い出したが、ブルとふたりきりになるわけじゃないし、大丈夫だよな…。
渋々とブルの横に座り、突き出された真鍮のマグを受け取って中身を一口。
ひどく苦い。焼けつくような液体が喉をすべり落ちていく。味なんてわからない。しかめっ面をしていたら、もっと飲めという風に促された。
ミコッテ族の集落でも酒は作っていたし、祝いごとがあるとみんなに振舞われたから、酒なら飲んだことくらいある。ただし、それは果物を発酵させて作ったにごり酒だったが、こちらは無色透明の酒だった。飲むと火のように喉が焼ける。酒場でママルカがよく頼んでいる水みたいなエールともまた違う。
相変わらず男たちはなにが面白いのかゲラゲラと笑いながら酒をあおっていて、なんで俺がその輪にくわわってぽつねんと座っているのかがよくわからなかったが、きっとマグを空にするまで解放してくれないだろうなと思い、思い切って一気に全部飲んでしまった。うえ。
ほどなくして、世界の異変に気がついた。
まず、地面が斜めに傾いている。それから、物の輪郭がぐんにゃりしていて曖昧だ。
男たちの笑い声が頭の奥にうるさいほどぐわんぐわん響く。
なんだか暑くて、息苦しくてたまらず、肩で息をして喘いだ。火のそばじゃなくて、どこか涼しいところで休みたい…と思って立ち上がったら、よろけて右のほうに数歩たたらを踏んだ。頭をしこたま壁にぶつけてしまったが、壁にすがることでなんとか倒れずに済んだ。
うう…なんだこれ。足がもつれて上手く歩けない…。
「おい、なんだよ。もう酔っ払ったのか?」
ああそうか、これは酔っ払ってるのか…。
後ろからブルが馴れ馴れしく腕をまわしてきて、あまりの汗臭さに尻尾の付け根が総毛立った。咄嗟に振り払おうとしたが、腕をあげるのすらもどかしく、ブルに半ば運ばれるようにしてよろよろと歩いた。
あれ、どこに行こうとしてたんだっけ…。
なにかが変だ。
なにかがおかしい。
頭の片隅で警告を発している声がかすかに聞こえたが、酒がまわっていて思考がまとまらない。ブルに連れられて荷置場に足を踏み入れたときに、ようやく違和感の正体に気づいた。
”あいつとふたりきりにならないように”
そうだ、ここは袋小路だった。入り口さえ封鎖してしまえば死角になる。こんなところでブルとふたりきりになってしまうなんて、迂闊すぎた。
あわててブルの腕を振りほどこうとしたが、酔っていて力が入らない。
抵抗も虚しく腕をひねりあげられ、背中で両手首をしばられてしまった。
なんで縄なんか持ってるんだと焦ったが、あらかじめ用意してあったということか。クソ。
「まんまと引っかかったな、チビ」
振り返ると、悪鬼もかくやという邪悪な笑みを浮かべているブルと、その向こうでニヤニヤ笑っている二人組が見えた。
死角に俺を連れ込むや否や、激しい暴行がはじまった。
いきなり腹を殴られ、身体をふたつに折ったところに膝蹴りを入れられる。
飲んだ酒はぜんぶ吐いてしまった。それでもまだ頭の芯がしびれたままだ。もしかしたら薬かなにか盛られていたのかもしれない。
あまりの痛みに何度か気が遠くなって膝から崩れ落ちた。すると、そのたびにブルが俺の髪を乱暴に掴んで気絶させまいとする。
流れ落ちてきた血が目に入り、視界を曇らせた。
いつ怪我をしたんだろう? ああ、殴られたときに身体ごと吹っ飛んで、頭から木箱にぶち当たったんだっけ。
中に壊れものが入っていたようだった。大損害だ。あれって、俺のせいなのかな…。
もはや何処に傷があるのかわからないくらい、身体中がひどく痛み、きしんだ。
空気をもとめて喘ぐと肺が燃えるようだった。口の中は血の味しかしない。
ブルは俺を殴りながら何事かずっと喚いているのだが、耳鳴りがひどく、何を言っているのかわからなかった。
いや、仮にわかったとしても、興奮した猛牛を鎮める術がない。まるで格闘場の木人にでもなった気分だ。
さんざん殴られ、蹴られ、気がつくといつのまにか地面に倒れていて、石畳に点々と血しぶきが飛んでいるのが見えた。
ブルがぐったりした俺の体を引き起こし、手首の縄を解こうとしていたので、ああ、やっと解放される、と思った。
たしかに縄は一旦解かれたが、違った。今度は身体の前で両手首を縛られ、さらに頭上に引っ張られて重い荷物に括り付けられてしまった。
やつは俺を解放するつもりなんて、これっぽっちもないみたいだった。
半分がた身体を起こした姿勢で、いくらもがいても縄が緩む気配がない。
今の俺は罠にかかったウサギも同然だ。両足は自由だけれども、いくら蹴り上げてもブルに届かない。
そのうち、ブルに片足首を掴まれてしまった。はなせ!と叫ぼうとして、横っ面をひっぱたかれる。頭がクラクラした。
まだ暴力を振るう気なんだろうか。もう十分痛めつけたじゃないか。いったいやつが何を考えているのかわからない。
「もう…さんざん楽しんだじゃないか…。なにがそんなに…気に入らないんだよ…」
興奮したブルに通じるのかどうか微妙だったが、力を振り絞ってなんとかやつにそう言った。
ブルは俺を見下ろしたまま、影のように覆い被さって立っている。その表情は見えない。
だから、ブルがようやく跪いてきたときには、これで話ができる、なんて期待をもった。
「いいや、お楽しみはまだこれからだ」
乱暴にベルトが外されて、チュニックがまくりあげられた。汗ばんだ肌に夜気を感じる。
やつの手が服の中に滑り込んできて、全身が総毛立った。身体が小さくガタガタと震える。
脳裏にリジーの警告がふたたび過ぎった。
”あいつ”
力を振り絞って蹴りを入れるが、まったく動じない。
ズボンの腰ひもを解かれ、下着ごと引き下ろされた。足の間に割って入られる。
”ろくでもないことをたくらんでるみたいだから”
「いや…いやだ!」
「いいじゃねぇか、おまえが誘ったんだからよ」
もはや恐怖しか感じなかった。必死になってもがいた。
けれども、腕は頭上で拘束されたまま、両足はブルに抱えられていてどうにもならない。
なんとかにじりあがろうとしていたら、いきなり、身体を真っ二つに引き裂かれるような、ひどい痛みが襲ってきた。
喉の奥から絶叫がほとばしる。
すると、大きな手が口を塞いできて、叫び声すらあげられなくされてしまった。
痛い。苦しい。いやだ。
あまりの苦しさに涙が溢れてきて、こめかみを伝った。
容赦なく突き上げてくるブルの血走った目が、天空で赤く燃えるダラガブと重なる。
それはどんどん大きくなってきて、俺を飲み込まんばかりだった。
突然、涸れ井戸につき落とされたときの光景が蘇った。
頭上にぽっかり空いた穴から覗き込んでいるのは、目を赤く光らせた妖魔たちだ。
上から幾本もの鋭く尖ったナイフが投げ入れられ、俺は容赦なく全身を切り刻まれた。
「ああ…あああ! あああああ!」
悲鳴が聞こえる。誰の声だろうと思ったら、叫んでいたのは自分自身だった。
ブルは俺を貪るのに夢中になっていて、すでに口を塞ぐことをやめていた。
涙でにじむ目に、冷たく光る白い月と、血のように真っ赤なダラガブがうつる。
もう、なにが夢で、なにが現実なのか、わからない。
大いなるメネフィナよ。お慈悲です。
どうか、
いますぐ。
俺を、死なせて、ください。
もはや叫ぶ力さえ残っていなかった。
がくりと頭が後ろにのけぞる。
それから、ようやく暗闇が迫ってきて、俺は喜んで意識を手放した。
気絶している間というのは、時間の感覚がない。
倒れたと思った次の瞬間には、自分が別の場所にいて、時間も経過しているという感じだ。
なにせ意識がないんだから、眠りとは根本的に異なる。
俺の場合、ブルにひどく傷めつけられて気絶したようなのだが、そのあとがちょっと違った。
ずっと目覚めず、ひたすら長い悪夢の中を彷徨っていた。
真っ赤に燃える大地を素足で歩かされたり、縄で吊るされて槍で突き刺されたりもした。
生け贄を捧げる祭壇の上に転がされていた。
悪鬼がゲタゲタと笑いながら、身体にナイフを突き立ててきた。
血の復讐を!
おぞましい声が唱和し、血の滴る心臓がダラガブに捧げられる。
死はいつも唐突に訪れて、容赦なく俺の命を奪った。
何度も何度も殺され、諦めかけていたころに、不思議な空間にたどり着いた。
そこは真っ暗闇で、俺の身体は虚空に浮いている。
遠くのほうで、青い、清浄な光が輝いていて、そちらの方向に漂っていくと…。
ぼんやりと光が戻ってきた。
それと一緒に、体中のひどい痛みも。
俺は見知らぬベッドに寝かされていて、ママルカが呆然と俺の顔を覗き込んでいた。
長い夢から醒めたばかりで、夢と現実の区別がつかない。
真っ先に思ったのは、あんなに何度も殺されたのに、俺って案外頑丈だな、ということ。
「ママ…ルカ…?」
かすれ声をなんとか絞り出すと、ママルカがいきなり俺を怒鳴った。
「ママルカ様って呼べ! 馬鹿!」
「馬鹿って…なんだよ…」
「おまえは馬鹿だ! 大馬鹿のウスノロだ!」
あろうことか泣き出し、そのまま臆面もなくわあわあと泣く。
ママルカにわけもわからぬまま罵られているうち、だんだんと忌まわしい記憶が蘇ってきた。
そうだ、俺、ブルに騙されて、殺されかけて、それで…。
「おまえな! おまえ、三日も眠り続けてたんだぞ! 馬鹿!」
ひとしきり泣いてから、ママルカは経緯を語りだした。
ぎっくり腰で身動きがとれなくなっていたチャチャピの世話を焼いていたら、突然、血相をかえたリジーが家に飛び込んできた。
彼女いわく、たまたま荷運び場を通りかかったら、ブルが俺を抱えるようにして袋小路に入っていくのが見えた。しかも俺の足がもつれていて、どうも尋常ではない。
彼女は止めに入ろうとしたが、ブルの仲間ふたりに遮られてしまった。ムサシが危ない、と。
鼻をすすり上げながら、ママルカは続けた。
「おれひとり行ったところで、子分に足止め食らうもんな。だからおれ、すぐに親方を呼びに行ったんだ。けれども、荷置場に着いたときには、もう、ひどい有様で…」
ふたりが現場に到着したとき、俺は血を流して地面に横たわり、完全に意識を失っていた。
そばにはブルが血走った目のまま放心していて、やつは親方の呼んだ役人に大人しく連行されていった。
「おれ、てっきりお前がブルに殺されたんだと思ったんだ。脈はあったからホッとしたんだけど、揺すってもまったく目を覚まさなくて。頭を打ってるかもしれないから、親方はあんまり揺すったらダメだって言うし…」
結局、親方が俺を抱き上げて彼の家まで運んでくれたらしい。
手分けしてママルカが医者を呼びに走り、それで体中の傷の手当てをされた。
頭には切り傷があり、脳震盪を起こしていた。肋骨も数本折れていた。縛られていた両腕には擦り傷ができていて、下半身には裂傷を負っていた。
手当を見ていた親方とママルカは、俺がブルにされたことを察したことだろう。
「命に関わるような怪我はなかったんだ。でも、なんでかお前、ずっと眠ったままで…。医者も目覚めない理由がわからないっていうし…でもこのままだと衰弱死してしまうって脅されて。だから、おれ…。」
扉が開く音がした。見ると親方が部屋の入口に立っていた。ママルカの声を聞きつけたのだろう。
険しい顔をしていたのが、俺を見てみるみる表情が緩んでゆく。
「ムサシ! やっと目を覚ましたか…!」
「親方…」
「良かった、もう大丈夫だな! どれ、ちょっと身体を起こしてみるか」
親方とママルカに助けられて、少しだけ身体を起こした。まだ頭がクラクラしたが、大丈夫みたいだ。
ママルカがベッド脇のテーブルの水差しからコップに水を注いで手渡してくれる。
水の匂い。なんだか久しぶりだ。口に含んだらビックリするほど水が甘く感じた。
「三日も眠ったきりだったろう? 熱もあったし、脱水症状が心配だって、ママルカがずっと水を飲ませてたんだぞ?」
「口移しでな!」
ママルカがとんでもないことを言って、俺は危うく口の中の水を噴き出しそうになった。
なんとかこらえたがむせてしまい、咳をするたびに全身が激しく傷んだ。
く…くそっ…ママルカめ! 絶対狙って言ったな…!
「意識がなかったら水も飲ませらんないんだけどな。眠ってるんならいけるだろうと思ったんだ。案の定、寝ながらしっかり飲んでたから、よしこれはいける!と思って、おれはおもむろに食べ物を噛み砕き」
「いや、それはさすがに勘弁してくれ…」
「与えようと思ったが、お前が寝てても拒絶した。無念だった」
良かった。えらいぞ俺。
「ムサシ。ドリスにはお前を俺の使いで遠くに行かせたと話しておいた。まさか同僚に半殺しにされたなんて言えないからな」
ドキリとした。
親方に言われて、急に思い当たったからだ。
俺がどうしても目覚めなかった理由。
苦しみのあまり、俺はメネフィナに死を願ってしまった。
ドリス。ドリスが俺を待っているのに、死にたいなんて一瞬でも思ってしまった。
命を賭けて守ってくれた母、俺を助けてくれたレオン。ママルカ、それに親方のことも、裏切ってしまうところだった。
生きて欲しいと思っている人がいる限り、絶望に飲み込まれてはいけなかった。
俺が死んでしまったら意味がないんだ。俺はママルカが言うとおりの大馬鹿だ…。
不意に涙がこぼれた。
あわてて袖でぬぐったが、あとからあとから涙が出てきて、止まらない。
「ん? まだ傷が痛むか? それとも腹減って泣いちゃったか?」
「ママルカ、ちょっと独りにしてやろう。ムサシも心の整理が必要だろう」
「あ、ああ。そうだな。あっちにいるから、なんかあったら呼んでくれよ」
黙って頷くと、ふたり連れ立って部屋を出て行った。
俺はふたたびベッドに横になり、苦労して顔まで毛布を引っ張りあげた。
哀しいのか悔しいのか、それとも安堵したのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、どうしても涙が止まらず、毛布をかぶったまま声を殺して泣き続けた。
いつか母が黙って見守ってくれたように、どこかから優しい存在が俺を見守ってくれているような気がした。