CYDONIA
第五話「つかのまの春」
母の消息は、ようとして知れなかった。
聞き込みできたのがウルダハ周辺だけだったからかもしれない。
あの怪我の状態からいって母がすでにこの世にいないことは明白だったが、それでも彼女の最期だけはできれば知りたいと思った。
老夫婦と一緒に暮らすようになって、はやくも半年が経過していた。
はじめは警戒して部屋の隅でじっとうずくまっているばかりの俺だったが、新しい環境に馴染むのにあまり時間はかからなかった。老夫婦が野良猫のようにビクビクしている俺を気遣ってくれたり、言葉が通じないというのに根気強く話しかけてくれたからだ。そこまでされては、さすがに敵意がないことくらいわかる。
最初に覚えたのは「ムサシ」という彼らの息子の名だ。
俺がいつまでも名乗らないので、いつしかその名で呼ばれるようになったわけだが、その次に覚えたのが「レオンハルト」 「ドリス」という、のちに俺の養父母となるふたりの名前だった。
養父レオンハルトはアラミゴ出身だ。アラミゴはヒューランの中でも特に背丈の高いハイランダーが多い土地だそうだが、彼もハイランダーらしい大柄な体格だった。筋肉はすでに衰えてしまっているようだが、姿勢が良いのであまり年齢を感じさせない。
アラミゴで反乱が起きるまえに単身ウルダハへ移り住んできて、炭鉱夫として生計を立てていたらしい。腕を買われて現場監督として働いていたが、長年の仕事で肺をやられてしまい、炭鉱の仕事は引退したそうだ。
養母ドリスはウルダハの中産階級の生まれだ。白髪混じりの亜麻色の髪をきつくひっつめ、はしばみ色の瞳をしている。もともとは教師をしていて、学のなかったレオンが学校に通うことに決めたとき、そこに務めていたのがドリスだったらしい。
俺が心を開いたとみるや、ドリスはさっそく共通語の会話と読み書きを教えてくれた。
異文化の中で暮らしていた子どもに教えるのだからさぞかし大変だったはずだが、彼女の教え方はとてもわかりやすかった。
はじめはミミズがのたくったような落書きを量産する一方だったのだが、彼女のおかげで半年も経った頃には日常会話と簡単な読み書きならできるようになっていた。
言葉が理解できるようになって、今度は好奇心が頭をもたげてきた。
そこで、人通りがまばらになる夕暮れ時になってからこっそりと部屋を抜けだし、家の近辺をウロウロと出歩くようになった。
母の消息をなんとか知りたいと焦る気持ちもあったが、そもそも土地勘がなければ聞き込みなどできるはずもないので、まずは探検と割り切ることにした。
石だけで作られた高い建物はどれも珍しく、建物の間から見える王宮の巨大な影にはひどく圧倒されたものだ。
人通りのない夜の市場も歩いてみたが、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
どういう仕組みになっているのか、天井の高いところから延々と水が降ってくる仕掛けなどもあった。いつか水が枯れるんじゃないかと思ってハラハラしながら見ていたが、ついに水は枯れることがなかった。
物珍しさで王政庁のほうまで足を運んだこともあるが、しゃがみこんでフカフカした絨毯を観察しているうちに衛兵に見つかり、咎められてすごすごと引き返す羽目になった。
ウルダハの中の探検に満足すると、今度は門の外へ出かけるようになった。
外壁沿いにある流民の天幕群は、はじめて来たときと変わらず風雨にさらされるまま地面にへばりついていたが、その向こうには小さな畑が点々とあり、ヤギとニワトリを飼っている農家も見つけた。さらに少し歩いたところで線路を見つけ、これに沿って歩いていけば母としばらく暮らした洞窟に行けるかも、などと考えた。
もうひとつの門から出ると、そちらでは鉄で作られた大きな仕掛けがいくつも動いていて、大地には大きな亀裂が走っていた。亀裂の下のほうに降りられるよう、木で足場が組んであるようだ。
好奇心で上から覗きこんだら、あまりの高さに目がくらんでしまった。夜中に出歩いてここから落ちないように気をつけないと。
母の消息を訪ね始めたのはこのころだ。流民に話を聞いてみたり、丘の上にある墓地まで足を運んだりもした。
しかし、母あるいは追手のミコッテ族の目撃談はまるで聞かないのに、むしろ俺のほうが流民たちの間で噂になってしまった。滅多に人里には姿を見せないミコッテ族の男、それも子どもなのだから仕方ない。
噂になるのは願ったりかなったりだ。母の消息を探しているということが広まれば、あちらにもそれが伝わるはず。
けれども、そのせいで俺が毎日こっそり家を抜けだしていることが養父母にバレてしまった。
あるとき、明け方になって家に戻ったら、むすっと腕組みしたレオンと泣きはらしたドリスが待ち構えていた。
はじめは誰か親しい人が死んだのかと思った。まさか俺のことを心配して泣いていたとは思わなかったから。
「ムサシ、毎日こっそり出かけていたんだな?」
「……ええと…はい。ごめんなさい」
俺は素直に頭を下げた。
ミコッテ族は感情が顔より先に耳と尻尾に出てしまうから、ペタリと倒れた耳で本当に反省していることは伝わっただろう。
一生懸命言葉を探しながら、毎日外に出かけていた理由を説明した。
母と一緒にミコッテ族の集落から逃げてきたこと。
すぐに追手がかかったこと。
母が瀕死の重傷を負いながら俺を逃がしてくれ、ひとりでなんとかウルダハに辿り着いたこと。
たぶん死んでしまったであろう母の消息を訪ねて、近隣を探して歩いていたこと…。
一旦泣き止んだドリスが再びはらはらと涙をこぼし、跪いて俺の身体に両腕を巻きつけてきた。
黙って話を聞いていたレオンだったが、しばらくするとおもむろに言った。
「よし。これからは俺も一緒にオマエの母さんの行方を探そう。ドリスもそれなら構わないだろう?」
それで、俺とレオンとでウルダハ周辺を散策するのが新しい日課となった。
引き続き母の行方も探してみたが、そちらについてはやはり手がかりは掴めなかった。
俺が母といたのはブラックブラッシュ近くの洞窟だったということを話したところ、もし追手を俺から引き離そうと考えるのならば、母が向かったのはドライボーンの方角ではないかとレオンは言った。
ドライボーンまでは徒歩で行くことはできないようだし、なにか方法があったらそのうち行ってみよう…。
レオンは家では寡黙な人だったが、外でふたりになったときはよくしゃべった。
ウルダハの文化のこと、政治のこと。貨幣経済について。
そういえば、ミコッテ族の集落にいたときも、おかねとかいうものでヒューランと取引をすると聞いたことがあった。食べられもしないそれを大切にしている意味がわからなかったが、レオンから聞いてようやく合点がいった。道理でみんな狩りをしないで暮らしていけるわけだ。
それから、外の天幕群を眺めながら歩いているときには故郷アラミゴのことを教えてくれた。
「いまアラミゴは圧政と反乱、帝国の侵攻で疲弊していてな。ここまでなんとか辿り着いても戦いの傷を癒せないまま死んでしまう者が多い。せめて飢え死にはしないよう、市民で炊き出しなどの活動はしているんだが、ウルダハもたいした手は打てないままだ。本当ならアラミゴ人たちで力を合わせて解決しなきゃならん問題なんだがな…」
レオンは肺を患っていたから戦いに行くことができない。それならば、と、ふたりの息子であるムサシがアラミゴに向かい、そしてそのまま帰らぬ人となったらしい。そのようにして多くの若者が戦地で命を落とした。
帝国の侵攻とともに、多くの流民がウルダハに着の身着のままでたどり着いてくるものの、多くは仕事も住処も満足に見つけられず、外壁沿いのくたびれ果てた天幕で日々の暮らしを余儀なくされている。
レオンとドリスはアラミゴ出身の仲間とともに慈善活動をしていた。俺が流民街で凍えて死にかけていたとき、たまたまレオンが近くにいたのもそのせいだ。
炊き出しのそばで人だかりを見つけてのぞきこんでみたら、凍えて意識を失った子どもが今にも見捨てられそうになっていたらしい。
貧民の子どもが凍死することは珍しくもない話だったが、まだ生きているものを見殺しにするとは何事かと無我夢中でひったくって自宅に連れ帰り、ドリスとふたりで必死に温めた…そこで目が覚めた俺の記憶とも一致する。
ところが、泥を落としていくうちにヒューランにはない特徴的な耳と尻尾が出てきて、レオンは面食らった。
ミコッテ族の女性ならウルダハにもそこそこ住んでいるそうだが、男、しかも子どもというのはまずいない。多くは集落から出てこないか、もしくは生涯放浪しているせいだろうが、とにかくそれでレオンは俺を孤児院に預けようと思ったそうだ。
あとで聞いた話だが、ウルダハで孤児院を運営していたのがミコッテの女性だったらしく、ならばそこにと考えるのは自然なことだろう。
けれども何故か、ドリスが頑なに俺を手放すことを拒んだ。
俺がドリスをおばあに似ていると思ったように、ドリスも俺に亡くした息子の面影でも見たのだろうか。
ミコッテ族の子どもをどう育てたらいいものか、はじめはずいぶんと悩んだらしい。しかし、俺を引き取ってからというもの、ふさぎがちだったドリスが生き生きとして、そのうえ明るく笑うようになったことなどをレオンから聞かされた。
「息子が亡くなったと知らせがあって、そのときからドリスは感情も無くしたみたいになっちまったんだよ。だが、オマエが心配かけたってことでまた泣くようになったんだからなぁ。血の繋がりなんて関係ないんだな」
はじめはおばあと雰囲気が似ているとすら思ったドリスだったが、似ていたのは一度決めたら絶対に譲らないという芯の強さで、普段は優しくて儚げでいつまでも少女のような人だった。
レオンは彼女に一目惚れで、身分違いと知りながら求婚し、承諾してもらったらしい。もちろんドリスの両親は猛反対したそうだが、そこはドリスの芯の強さがいかんなく発揮された。なんでも、「この人と離れるくらいならウルダハから出てゆく!」とまで言ったそうだ。
とはいえ、ドリスはなにかといっては俺を心配してオロオロし、無茶をしがちなレオンをたしなめてため息をついた。それくらい情の深い人だった。
この優しくて繊細な人をどうしても守らねばという気持ちで、俺とレオンの間には奇妙な連帯感が芽生えた。
ドリスに喜んでもらおうと、ふたりで腕いっぱいの花を摘んで持ち帰ったりしたっけ…。
俺は養父母にとっては亡くなった息子の代わりだったが、それでも彼らの深い愛情は感じたし、命を助けてもらったことは今でも感謝している。
一緒に暮らせたのはほんの数年間だけれども、長い冬のような厳しい人生の中で、あの幸せな日々はつかの間の春のようだった。